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部活問題を考える

部活と勉強は両立できる

1987年に発行された書籍『「部活」と「勉強」は両立できる』
(学陽書房、著者:きしさとる・小島 勇 )※休刊
にて同書の第2部として小島 勇先生が執筆された内容を掲載いたします。

学校の部活動と体育教育の問題、学校の部活動が子ども達に与える影響などがわかりやすく書かれており、
2013年1月現在話題になっており、以前からたびたび指摘されている教師による生徒への体罰問題を解決するための手がかりとなる、子ども達への指導方法、教師自身の指導力量についても語られています。

教師として教壇に立つ時に、何を考え、子ども達を指導していかなければならないのかを学ぶために、現職の先生方、これから教師を目指す方は是非読んでいただきたい内容となっています。

※ご注意

当原稿は、書籍発行当時の状態をできるだけ保ちつつ、Webでの表示用に僅かな修正を加えたものになっております。
その為、人物や名称等も当時(1987年)のままとなっており、引用した機関誌等は現在発行されていない可能性もありますのでご了承下さい。

1.いま、部活は

◆部活に対する父母の疑問

1部で述べられたように、部活動は、教室の授業では体得できないものを持っており、中学生にとって、部活動の果たしている役割ははかりしれません。

しかし、年々盛んになる部活動に対して、その過熱ぶりが批判の対象になっていることも事実であり、いま、その指導のあり方が問われています。

部活動のあり方に疑問を抱く父母の声に耳を傾けてみましょう。

「息子は毎日、部活を終えて帰ってくると、食事もそこそこに寝てしまう始末で、宿題や予習をする気力すら残っていない。そんな疲れた姿を見ると、何もそこまで部活をやらなくてもと思えてならない」

「近頃の運動部はあまりに勝敗に固執していないか。強くなるためにあまりにハードな練習を課していないか。”強い”学校ほどその傾向がある。学校の指導に口を出したり、親の側の過熱ぶりも目にあまるものがある。学校、親ともども、本来の部活を考え直して欲しい」

「息子の部活は、七時からの早朝練習と真っ暗になるまでの放課後練習のほか、日曜や祝日も午前中は練習。夏休み中も一週間しか夏休みがなかった。たまに家族でどこかに出かけたいと思っても、それもできない。せめて日曜、祝日ぐらい休みにできないのか。中学時代は心身ともに大切な時期、部活に一生懸命打ち込むのもいいが、本を読んだり、旅行をするなど、”こころ”の充実を図るゆとりが欲しい」

(「静岡市中学校部活振興会の報告」より)

部活動の練習時間が無制限であることは、とても親子の納得のゆくものではありません。

父母は家庭学習への影響を心配し、親子のふれ合いの場が失われていることを憂い、過熱化する勝利主義に対して疑問を持っているのです。

さらに、部活はこのままでいいのか考え直して欲しい、もっと多様な物の見方が育成される時間をもてるような部活であって欲しいと願っているのです。

つまり、父母が心配する「部活の問題」とは、逆の言い方をすれば、「部活動本来への願い」と言うことになります。どんなところに問題の核心があるのか、いくつかの問題を取り上げてみます。

◆過重な活動時間

全国の中学校では、部活の練習は毎日、日曜日、夏休みも行われているところが多いようです。

PTA研究誌の座談会にも、次のような報告があります。

「練習は毎日。試合二週間前から朝練に入るので、お弁当をもって六時半に家を出ていました。夏休みもお盆前後を休むだけ。五日間の合宿もあって、自分の自由になる時間は一週間もなかった」(テニス部・神奈川)

(『PTA研究』第167号)

長野県の養護の先生方が調査をしました。県下190校中、160校の回答のまとめです。

県下の80.7%が運動部に加入。朝練はほとんどの学校で実施、平均一時間。放課後練習は一時間半から二時間がもっとも多く、なかには二時間半から三時間(7校)という学校もあった。日曜日の練習も実施しているところが多い。

部活動での活動時間は、毎日三時間(以上)が平均的な活動量だと言えます。これが、一年間ほとんど休みなしで続くなら、やはり過激な活動といえます。

日本体育大学の正木建雄氏は、「成長期の子どものスポーツ」インタビューに、次のように答えています。

精神面とのバランスも大事です。中学生の場合、体育の授業が三時間、必修クラブが一時間、放課後に部活を二時間やるとすれば、重なっていわば四時間ぐらい運動することもあるわけで、やりすぎです。

(「PTA研究」)

一日の運動量としても過重である指摘です。度が過ぎる練習が、子どもの身体と精神に与えている影響をみる必要があります。

◆大きい学校、家庭生活への影響

父母の疑問の声から言えるように家庭生活への影響は深刻です。

静岡市中学校部活振興育成会の報告で見てみます。この報告は「望ましい部活動」を探るため、57年度から始められ60年度春に至るまでの息長い調査となっています。部活動の生活への影響は次のようにまとめられています。

○部活動の疲れに対しては、「大変残る」「少し残る」と答えたものが52%と過半数を超えている。体力の劣る一年生ばかりでなく、二、三年でも多い。

○学習への影響も、六割の生徒が「帰宅が遅くなり勉強時間が足りない」「勉強していてもすぐに眠くなる」「疲れて勉強できない」と答えている。

○夕食を家族と一緒に食べられない生徒も20%近くおり、「せめて夕食ぐらい家族そろって」という声も多い。

報告は、この結果をふまえて、父母の願い、家族のあり方も含み込んだ提言をしています。

日曜、祝日の練習は、家族との会話の不足、家族の一員としての自覚のなさ、顧問教師の健康管理などの問題も生じている。青少年の健全育成を考える時、家庭の教育力向上、親子対話の促進はきわめて重要である。月に一度くらいは部活動を休み、生徒を家庭に帰したい。

(『静岡新聞』1985年10月17日)

部活動での活動時間を再考する上で、大切な内容です。

さらに、提言は、こう結んでいます。「生活全体の中での部活の割合を考え、練習時間の長さ、終了時刻を考慮する必要がある」考えてみれば、当たり前すぎる程の意見なのです。これを提言としなければならないほど、現実がゆがんでいるのです。

授業、人間関係など学校生活への影響も無視できません。部活問題を取り上げた教師の学習会で、次のような問題が参加した教師からつぎつぎと報告されました。

「授業中は眠そうにしている。リーダーの生徒としてみこんでいるが、クラス活動や生徒会活動など、まったく努力しない」

「選手養成としてのみ部活がある。顧問には最敬礼の挨拶をするが、授業挨拶や他の先生の指導にはいいかげんである。一、二年生も同様、上級生には廊下の遠くから挨拶をする。どんな所でも挨拶する。授業で丁寧に指導してくれる先生は、全く無視。部活は、学校生活の中で、特別な人間関係が支配している。」

養護の先生からの報告も、また、深刻です。

「練習に明け暮れた子どもたちが、疲れた、眠い、だるい・・・・・・と保健室にやってくる」学校生活をしっかり送らせる上でも、部活が大きな影響を与えていることがわかります。

いま見てきたことから言えることは、部活動は、子どもの「家庭生活」「学校生活」の両面の問題に、位置づけて考える必要があるということです。

◆子どもの成長発達をはばむ

「子どものスポーツ障害を憂える」と千葉県の医師、原瀬瑞夫氏は、朝日新聞の論壇でうったえます。発育期の子ども達のスポーツ外傷、障害が多発しており、「永続的な障害は、大きな社会問題に発展する恐れがある」と警告しています。スポーツの一時休止が最上の治療法であるのに、それが現場では、「対応」「予防」ともに遅れている現状を、スポーツ医学の確立の必要性とともに述べています。次の指摘をみてみましょう。

典型的な例が、野球によるひじの変形である。少年野球のひじの状態には、すでに中学生レベルで大人顔負けの変形がみられることがある。その子にとって将来、職業選択などの点で、大きな障害になるかもしれないと思うと、胸が痛む。

・・・・・・・・・・・・。

対外試合ともなると、一部に成績を重視するあまり、過度のスポーツトレーニングが目立つ。「使い過ぎ」による野球ひじ、ジャニパーひじ、疲労骨折などは、その弊害のごく一部にすぎない。少なくとも小・中学生レベルでは、メダル争いが主眼のスポーツ活動は、医学的に大きな問題があることを、一線の医師は肌で感じ、知っている。

(1986年12月4日)

成績主義のみ至上としたスポーツが、子ども達の身体に、深刻な影響を与えているのです。朝早くから夜遅くまでの猛烈な練習が、子どもの心身にゆがみを生んでいる事例は、現場の教師の研究会でも報告されています。

全国養護教諭サークル連絡協議会、第16回研究集会で中学の部活が、子どもの発達と健康に与える問題が報じられています。

長野県の養護の先生方の調査から、再びみてみましょう。

運動部加入生徒の疾病異常の実態でも、医師の診断を受けた生徒は1,320人とマンモス校一校分の生徒数に相当するほどです。なかでもオスグッド、シュラッテル病(ひざの痛み)が404人、ツイ間板ヘルニアが103人、貧血が682人に上っています。

学校の養護の先生が把握したものの数でも、相当数です。部活動での傷害が、放課後や休日に多発していることや、養護の先生に報告されない事例も考えてみると、この数倍以上の「部活動障害」があると想定できます。

過度な鍛錬主義が、腰痛をはじめ「部活でつくり出された傷害」として、子どもの身体を苦しめています。

◆隷属的関係が子どもをゆがめる

部活動の第一の問題に、隷属的な人間関係、集団関係が取り上げられます。小学校の時は、単なる上級生と下級生の間柄であった子ども達が、中学校では「先輩・後輩」の暗黙の重さがこめられた関係にしばられてきます。特に、部活は、隷属関係として強固に一人ひとりを縛りつけるのです。

子ども達を呪縛する、この人間関係・集団関係は、中学校教育がつくり出す根の深い問題に起因するのですが、部活動では特に、顕著に現れています。

わが子が部の先輩に対してとる態度に、父母は驚き、不快感を持ちます。

「中二の娘と買いものをしていて、出会った一年生が、まるでコメツキバッタのようにおジギをするのです。はじめに最敬礼——それも会釈なんてものではなく、異様な感じを受けるくらいの礼をして、それをすれ違うまでに三回もしたのにはビックリしました」

「先輩が三人いたら、チワッ、チワッ、チワッって、一人に三回、合計九回、挨拶するんですよ」

「先輩・後輩の意味もなく封建的な上下関係が気になります。特に、女子がひどい。”バッタ”なんて言うくらい、先輩の姿が見えなくなるまでおジギしていたりする」

「運動部は『先輩が絶対』で、まるで大学の運動部にみられる先輩・後輩=命令・服従関係が横行。この中ではおとなしい文学少年たちは居場所がありません。文化の香りもありません」

(いずれも『PTA研究』167号)

部活動の人間関係は強烈な服従関係に支えられています。絶対服従の関係です。

中学生となると、さまざまな人間の考えや価値を知ってゆく時であり、自分にある人間関係もいろいろと作り変えてゆく時代です。反抗や反発もその一つの発達上の特徴としてみられないわではありません。

しかし、部活動の人間関係が、大変理不尽な位置にあるのを、子ども達は知っていても、その関係を変えることなく受容しています。むしろそのゆがんだ集団関係を自ら強固に支えていっています。下級生は、仕方のないこと、試練として受容し、上級生は、下級生を命令し、服従させることで上級生の位置、役割を鮮明にするのです。その服従関係は、決して健全な指導関係でなく、「いじめ」と「いびり」という陰湿な制裁が中心となっています。

なぜ、子ども達は、絶対服従の関係を受け入れ、強固に支えていくのでしょうか。

中学校に入学して、子ども達がやりたいものの第一番に「部活動」があるからです。その背景には「好きな運動を思いきりやりたい」「身体をきたえたい」「技術を伸ばしたい、上手になりたい」という子どもの強い願いがあります。子ども達は、自分の要求が部活動の中でかなえられると期待して、入部するのです。そして、 好きで ・・・ 入部したのだから、少々の事はガマンし耐えて、いつかの日のめを見ることを考えて、部活のさまざまな矛盾・問題を試練として受け入れてしまうのです。

新参者や異質な人物と生活する時、異質のまま共存関係をとらず、必ず同化・服従を強いる集団関係の特徴は、「いじめ問題」をはじめ、学校教育に共通する深刻な問題として検討しなければならない内容でもありますが、部活では、特に顕著です。

部活動のように、特に、ある一つの目的意識を持つ集団関係の中で、異様な服従関係がより強固に秩序を形成してゆくというゆがみを見なければなりません。子ども達が、異様な関係を知りつつ受容し、その関係を支えてゆく原形は、部活動でのその現象は強く出るものの、それが簡単にマネできる形が、学校ばかりか社会の中にいくつも温存されているからと言えましょう。

「いじめ」や「いびり」にさらされて初めて仲間入りさせられる、あるいは、さらされ続け、また耐えることで関係が維持される、反発すれば、異端としてハジかれ、徹底して攻撃される、部活動でみられる陰湿な人間関係のしくみは、どこにでも見えてくる問題なのです。子ども達も「受容」「容認」「追認」そして「その中核」に位置して、初めて、部活動での隷属的な安定を保つのです。

顧問教師は、部活動をやりたいという子どもの要求は大切にしながらも、このような隷属的関係を直視し、改善してゆかなければなりません。

2.部活をゆがめるものは

◆ゆがみを生み出す三つの問題

1では子どもの心身の成長・発達をゆがめている部活動の問題について述べてきました。この章では、そのゆがみはどこからきているのか考えてみます。

大きく言えば三つです。「勝利至上主義」「教育課程から切れた無原則的活動」「顧問教師の指導」この三つの問題が、部活動をゆがめていると言えるのです。

「勝利主義」とは、大会などで勝つことのみを強く打ち出した活動形態で、チャンピオンシップとも言われています。スポーツは戦いの場面があり、勝つこと、作戦、準備どれも大事なものです。情況分析、集中力、思わぬ展開からの創造力、スポーツには競う者、見る者を夢中にする豊かな魅力があります。

しかし、いつも 勝利のみ ・・・・ 追い続ける活動形態、 勝者になるためだけ ・・・・・・・・・ のスポーツ観は、運動のあり方を大きくゆがめてしまうのです。部活動でも同様です。勝つことだけが重視されてゆくと、勝つためを目的とした練習方法、試合日程が優先されてゆきます。練習内容もレギュラーのみ優先され、他は球ひろいばっかりという例も、このようなところから出てきやすいのです。運動の目的意識も、すべての子ども達に討議され、まとめられ、共有されているとよいのですが、一部エリート選手だけを中心にしたチャンピオンシップの部活動では、差別を感じる子ども達も多いはずです。

勝つことだけを良しとする運動目的の一元化は、多様な運動形態の可能性、子ども達の多様な運動要求を最初から切り捨ててしまうのです。チャンピオンシップは競争を部活動の中で繰り広げているだけに過ぎないのです。

大会主義の傾向が強まる中で、あらためて部活動をゆがめる原因の一つとして、勝利主義は考えていかなければならない問題です。

「教育課程から切り離された無原則活動」とは、1969年に改訂された学習指導要領に由来する問題です。それまでの課外活動は、教育課程内に位置づいた「必修クラブ」と、放課後の任意活動である「部活動」に二分されたのです。それぞれにねらいはあったのですが、教育課程から切り離された部活動は、多くの課題を負ったまま放擲(てき)状態に置かれ、学校ごと、あるいは、顧問ごとに明確な基準のないまま進行する事態になりました。

本来的に、社会体育や地域スポーツ政策が十分であればよかったのですが、その政策が不備なままで子ども達の運動要求が任意の活動である部活動に任せられ、具体的な活動基準や活動規制がないまま現在に至っているのです。(昭和43年、「中高の運動クラブの指導」の文部省体育局長通達が出されている。内容ある通達だが、具体的基準がないため現場では効力を持たなかった)。

教育課程に位置づかない「任意の活動」という曖昧な部活動は、また、教職員の共通理解をつくることを難しくしてきたといえます。指導上の責任、保証も不十分なことも全職員が一致してとり組むことを厳しくさせ、個々の教師の情熱に負う指導という面を強めていきました。

部活が顧問教師の指導いかんで、どのようなスタイルでも可能ということが出てくることになったわけです。

制度上の保証は不十分で、活動の理念も不明なまま、顧問教師の指導だけは放任されてきたのです。その上で、大会という具体的な要請に照準が合わされた、勝つためだけを目標とした部活動が拡大されてきたのです。

これらの三つの問題について、その実態を述べながら、詳しく検討してみましょう。

◆勝利主義が学校スポーツをおおう

「勝てば官軍、負ければ負け犬の遠吠えです」全国高校サッカー大会に出場後のある監督の述懐です。勝者の論理が道理になる指摘です。

スポーツが商業主義に乗り、各種大会ともテレビ、マスコミで取り上げられる時代です。高校はもちろん、小学校・中学校の全国大会も例外ではありません。勝つこと、勝者になることが、スポーツの目的として強く位置づけられてきています。観る大衆を動員するマスメディアの要請と商業主義がスポーツのチャンピオンシップを、ますます強固にしてゆきます。さまざまな思惑が、スポーツの大会にはまた働きます。

某高校理事長は、大粒の汗を浮かべ、「フレーフレー」三日から甲子園入りし、学校に戻ったのは、三度だけ。応援の生徒ら900人は奈良、大阪に泊まり込み。「できすぎかな」という破竹の進撃で、出費も、うなぎ登り。「一億円にいくかな。交通費や宿泊費で、かれこれ七、八千万円ぐらいですか。寄付と若干の個人負担で、どうにかなるよ。何億円かけても、マスコミは、これほどまでに(自分の学校のことを)書いてくれませんからね」

(『朝日新聞』1986年8月21日)

埼玉版にのった某私立高理事長の談話です。正直な本音が語られています。勝者になることで、まさに「勝てば官軍」いろいろな思惑が充たされます。また、どんな話でも脚光をあびることを、前述のサッカー部の監督も話してくれました。

このようにスポーツで名をはせ、学校名を響かせる効果をねらう高校(特に私立高校)が、全国的に増えてきています。今後の急速な生徒数激減にあって、生徒確保の有力な方策が各高校によって進められています。

一つは、学力の高い生徒を集める方策、もう一つが、運動能力が高い生徒の確保です。一般募集の生徒達と違って、入学時も、入学後も特別な優遇措置がつく例が、ほとんどです。

この傾向はますます拍車がかかって進行しています。それは、中学校の部活動にも大きな影を落としてゆきます。勝利を至上とする運動強化策に、スポーツ選手優遇の生徒募集が呼応してゆきます。中学校時代の活躍が、即戦力になり、それが高校の営利や目的に、またかなってゆくのです。

大会至上主義、勝利主義が強調されるスポーツが、学校教育のさまざまな運動形態、スポーツの目的を一元化してゆきます。

もちろん、スポーツは規定のルールを基にして「戦う」という大事な場面があり、 勝つ ・・ ことは、そのメンバーや指導者にとってもさまざまに大切な意味があります。勝つための作戦、練習過程、意志、予想など、多くの努力と知恵が評価されることでもあるわけです。また、勝つことは志気を高め、連帯感も増します。しかし、さまざまな条件をさしおいて「いつも、勝つ」ことだけを目的とするスポーツは、また多くの問題を作り出すのです。『たのしい体育・スポーツ』1985年14号の中村敏雄氏の報告はその典型としてみることができます。

61年度「かいじ国体」の総合優勝をめざす山梨県の強化対策は「ゆき過ぎ」として、新聞で取り上げられました。県下に大企業がないため、少年の部の拠点である高校のクラブを強化する方法が、次のような女子高生の訴えに通じると、中村氏は指摘します。

「こうして充実した中学時代を終え、高校に入学して、まっ先に部活動に入部しました。しかし、その部は、私が今までに経験してきたものとは全く違った部でした。体を動かすのが何よりも好きだった私でしたけど、ただ体を動かすのが好きということだけではついてゆけず、数人の友達とやめました。今現在、部をしている人もやめたがっております。・・・・・・勝敗にだけこだわってそのスポーツを嫌になるほどしたり、また勝つことだけを目的とする部の雰囲気についてゆけなくなった、あるいはやる気をなくしたらやめるということ、高度な技術と忍耐力の持ち主だけに与えられる招待状があることに私は納得がいかず、・・・・・・」

勝利至上主義は、多様な子ども達の運動要求を切り捨てることであり、子ども達に過剰な練習を強要してゆく問題をはらんでいるのです。

勝利主義の一例を高校の部活動でみてきましたが、中学校でもまったく同じことがいえるのです。子ども達が、勝つことだけを目標に徹底的に練習を繰り返してゆく部活動の姿です。大会で勝つために、子どもが引き回されてゆきます。また、子ども達も、「勝利にむけての取り組みがスポーツである」と、閉じた運動観、目的意識を持たされてゆきます。

勝利主義に固まることが、多くの問題をつくり出します。指導者である顧問の問題では、さまざまな運動観「運動の思想」を欠落させてゆき、子どもの指導においては、のめり込んで、一人ひとりの子どもの多様性の評価を欠如してゆきます。子ども達も同様、勝利に向け夢中になることが運動であると錯覚し、自分の身体・心、そして自分の運動の意味を問い直し、自覚してゆく力を育てることがありません。

本来的に、顧問教師は、チャンピオンシップのみめざす根性主義、ガンバリズムはその時の勢いのみを作り出すのみで、結果的には常に集団の関係も運動部の思想もやせてゆくことを知っていなければなりません。

◆教育課程から切れた無原則活動

教育課程上の体育では、子どもの心身の発達を十分考慮して、カリキュラムが作られ、各学校の教師によって工夫され、実施されています。

しかし、部活動の指導は、何ら考慮すべき基準さえないのです。「部活動は、教育課程から切り離されていて、学校の責任でやっているわけではない」これが行政当局の建前です。この考えから、部活動は社会体育活動に属し、子ども達の自主的な活動を、周囲の大人(教師)がバックアップしているという「虚構」の姿が作られているのです。

実際には地域での社会体育も不備なままですから、現在、子ども達の運動要求に答えているのは、「学校の部活動」です。学校の施設 、その学校の教師と子ども 活動しているが、学校の教育活動ではないという「宙ぶらりん」の状態が部活動の問題、責任の所在を曖昧にしています。どの学校でも活動の目的も時間も、当事者まかせという状態が一般的です。学校の子ども達の活動でありながら、学校の教師全体で取り組む教育活動でないという曖昧な位置づけの部活動は、また、他にも問題を多くつくり出しているのです。

極論すれば、部活動の運営は、意欲をもった教師、情熱ある教師の指導のもとだけで進められているのです。さまざまな部活動の問題があっても、指導にかかわらない教師が、物申すには難しい情況なのです。自校の部活動で、子ども達の学校生活が問題化されているのに、顧問教師に進言できない雰囲気も一般的な事例です。

◆顧問教師の指導力不足

今までに述べて来たように、すべての権限をもつ「顧問教師の指導」が子どもに与える影響ははかりしれないのです。スポーツは本来的に、個々人の身体を解放するものです。部活動では生徒達の心身を解放するような集団づくりも視点に入れた指導を教師は展開すべきです。

顧問教師は、生徒たちが隷属的な関係を受容するほどスポーツ要求を強く持っていることを再認識し、子ども達の心身が健全に発達するように練習時間、練習方法、上級生・下級生の関係を改善しなければなりません。

しかし、現実には、顧問教師が服従的な上級生下級生関係を容認したり、顧問自身が生徒に大けがをさせるような体罰を行っている事例も珍しくないのです。また、上級生が教師を見本として下級生をしごくということさえあるのです。顧問教師、指導者の問題例を取り上げてみます。

(1)体罰をふるう顧問教師

三重県の母親が雑誌に投稿しました。

中三の次男が、クラブ活動中に顧問の先生からけられて尾骨挫傷。全治二ヶ月でいま治療中です。幸い入院はまぬがれましたが、毎日の通院、いすに腰かけると痛みますので大変困っております。

クラブに参加していた全員がけられ、たまたま次男は当たりどころが悪くてこうなったしだいですが、みんながダラダラやっていたからという理由のようです。

自転車通学ができないため、通学証明書を発行してもらいにいくと、学校側は誠意がなく教頭からいやみをいわれ、やりきれない毎日を送っています。

このような事態ですから、どこに相談にいき、どう解決したらよいか方法もわからず悩んでいます。

次は埼玉の部活動に異常なほど、力をそそぐある中学校の話です。引用が長くなりますが、子どもの心がどう育つのか、考えていただくために取り上げてゆきます。

○暴力をふるう場合、スパイク、竹刀、中味のつまった重い缶などが用いられ、子どもたちが立ちあがれなくなるまで徹底的にやられる。血だらけになったユニホームは洗って干し、乾かしてから帰宅させる。

○仮入部中は教師がおだやかなので、うちの娘は卓球部に入ったが、その直後、ほんのちょっとしたことでの往復ビンタを目撃し、すっかり嫌気がさした。また三名の”破門”事件について、父母会で私が質問したことが教師の勘にさわり、以来ずっと娘はいじめられ、いつも球ひろいばかり。しかし人数が少ないので試合には出なければならず、負けると長時間、正座して叱責をうける。部の顧問教師は試合の時、父母に自分の弁当も作らせた揚げ句、おかずの文句をいう。

○ひざげりによる腸管破裂、頭突きによる頭部異常、ビンタによる眼球損傷など、傷害事件は後を絶たず、現在係争中のもの二件。どの場合も学校から家庭への連絡はいっさいない。(腸管破裂については医師の証言もあり、加害教師は学期途中だったが、研修の名目で教育センターへ異動になった)。

○教師としての責任と熱意が伝わってくるような叱り方ならば生徒との信頼関係が深まる場合もあるが、K中学でやられていることは、まさに、生命の危険を感ずるような、プロレスなみのとびげり、急所げりといった暴力で、生徒たちはおびえて声も出せない。

陸上競技やコーラスなどで全国一の成績を誇る学校のことです。

この事例のように深刻ではなくとも、子ども達は、顧問が「部活では変身する」ことを肌身で感じています。その思い入れは、まるで「車を運転する時は、人が変わるようだ」という例えになぞらえた父母もいたほどです。顧問教師による「差別」「いじめ」「体罰」「暴力」が、部活動の陰湿な人間関係の頂点に立ち、絶対権力として、子どもの心を圧迫し、ゆがめている事例です。

もちろん、前述とは違って、子どもの心身の健全な発達を考えて、子どもと一緒に汗を流し、民主的な人間関係づくりに取り組んでいる多数の教師もいることはいうまでもありませんが、部活指導にあたる教師は、いつもスポーツを志す子ども達の基礎集団に対する構想と健全な指導を十分に考えてゆく必要があります。

(2)自分の指導を検証されることを嫌う顧問教師

どの部活の顧問教師も、他者から自分の指導を検証されることを、嫌う傾向にあります。経験上からいえば、体育系の教師が一番嫌います。もちろん、教師は他から自分の指導について物申されることを嫌がる職種であることは、一般的にも言えることです。

さて、このことは別として、指導の検討を嫌う顧問の問題は「部活動指導の問題」として注意する必要があるのです。

部活動においては、指導を他者から検証されるのを避けるだけの理由があり、同時に、それはなぜ部活動の運営が密室化・秘密化するのか教えてくれます。「顧問教師の指導の問題」とは、「指導方法」のことであり、「指導技術」のことです。 指導を検証する ・・・・・・・ ということは、「指導方法の公開」であり、「指導技術の共有」を保障するということです。それを、なぜ、顧問教師は嫌うのでしょうか。

指導の技量が低いから、これが一番めの理由です。自分の指導が未熟なことを知られ、他人にとやかく言われたくないのです。二つめは自分が部活動では最高権力者だからです。ほとんど自分の思う通りに子ども達を自由に動かします。命令と指示の一方方向で、自分の指導はさえぎられることなどありません。まして、指導が、評価されたり、検証の対象にされることなどありません。

命令や指示の一方向に慣れた顧問の意識に、「指導についてとやかく言われる」ことは、なじまないのです。理性ではなく、気持ちが許せないのです。部活動は、自分の天下、誰もが対等に侵入できない世界なのです。自分の指導を検証したり、注意したり、批判したりすることはあってはならないのです。自分と自分の指導は、相対化されてはいけないのです。

このような絶対権力教師に、過ちを物申すには大変です。すぐ腹を立てるのです。親から進言されれば、子どもに仕返しをし、教師仲間から注意されれば、ふてくされたり、逆うらみで何かとじゃまをします。部活動で未熟な指導をしている教師に、このような事例は、多いのです。部活動指導と似て、「指示・命令」系統に慣れた教師も、指導を検証されることを嫌います。

指導を公開しない理由の三つめは、「指導技術を秘密にする」体質です。日本の運動の傾向として根づよいものではないかと思います。

もちろん、これも勝利主義の悪癖の一つです。勝つ方法、うまくなる方法を教えない、公開しない、できるだけ独自のものにしておくという秘密主義です。徹底的な科学的鍛錬方法、スポーツ科学・医学が進んでしまった現在、考えてみれば滑稽なことです。

三つの理由をあげましたが、いずれにしろ、顧問が自分の指導を公開しようとすることに慣れていず、日常的にもなっていません。これは教師の指導力量の向上という立場からは大きな問題となります。

指導が公開されず、共有されないということは、指導が高まっていかないということですから、未熟な指導をする教師は、いつになっても不完全なままであり、指導技術が個々の教師に属して停滞したままなのです。これは、考えてみれば恐ろしいことです。指導する者が固定観念を変えず、運動やスポーツの持つ発展性、可能性を促進しないのです。子ども達の可能性や教師の指導力を停滞させてしまうのです。

部活動での指導が、絶対化、密室化することがないようにするためにも、顧問教師は自己の指導を、他者から検証されることを嫌ってはなりません。また、指導力量を高めるためにこそ、指導を公開し、互いに学び合う機会をつくり、多くの人の意見にさらされる必要があるのです。

3.部活を教育的活動として位置づける意味

いま、あらためて、部活動は、運動の思想・運動の科学の視点から、子ども達の健全な発育を保障するためにどうあるべきか検討すべきです。

また、同時に、部活動の教育的意義・必要性を子ども達の成長のためにも導き出さなければなりません。現在の学校教育のゆきづまりにもかかわらず、制度から切れた部活動だけが活性化している姿に幾多の教育問題の影をみなければなりません。

「授業づくり」「学級づくり」などの本来的な教育活動にこそ、教師の情熱は注がれなければならないことです。しかし、多くの課題に満ちた教育現場の指導実践はどの場面でも重く、全教師の共通意識、取り組みもつくり出し難くなっているのが実際の学校です。日常の教育活動への取り組みのかわりに、自由で、より情熱をそそげ、夢中になれるものとして部活が選択されているという指摘もかなりあります。部活動を教育的活動として位置づけてゆくことで、現在の教育により責任を果たさなければならない学校と教師の課題が明らかにされてゆくのです。そして、それはまた、教育行政当局にも共通する課題なのです。

部活動を教育的に位置づけながら、現在のさまざまな課題を克服するための展望を導き出さなければなりません。

◆からだを育てる意味

運動には、身体をきたえる以外にも大事な意味があります。しかし、一般的には次のような考えが支配的です。

[運動]→[体をきたえる]→[筋肉や力を強くする]要するに、身体を固くする方向のとらえ方です。部活動の運動も、まちがいなくこの方向のものです。

運動には、逆の方向、まったく違った見方(からだの思想)があるのです。学校では、この観点からの運動の考え方が確立されていません。

「からだをリラックスさせる・ほぐす」ことが目的となる運動です。「からだ」そのものに聞く(生きることを問う)体操、呼吸することや、他者を高めてゆく豊かな動き、自他の生き方・身体のあり方を自覚させてゆく運動観のことです。これらの運動の考え方は、どれも、今までの固定観念を修正させ、現在の学校で繰り広げている運動のスタイルを再考させるものです。

現在の部活動での運動が、どれほど「からだ」を考えず、「運動」の意味を追求せず、「スポーツ」の意義を問いたださない偏狭なものか、部活傷害の統計をはじめ、その問題の数々をみても指摘できます。学校における子ども達の傷害の第一位が、運動・スポーツによるもので、その多くが、部活動によるものなのです(長野県の養護の先生方の調査を参照)

1986年10月10日の『朝日新聞』の投稿は、運動の意味を問い直す提起のものとして大切なものです。平沢弥一郎氏(放送大学教授)の意見をみましょう。

「体育=スポーツ」ということにはならない。

体育とは、文字通り「からだを育てる」ことである。健康を保障し、運動の正しい種類と量を定め、すべての人がからだと同様に心にも、性格にも良い影響を受けるために、たどる道である。

ところが、現状は学校体育や社会教育の現場において、「体育」といえば「スポーツ」を指している、といっても過言ではない。果たしてこれでいいのだろうか。

体育専門の大学や学部には、スポーツができない者の入学は困難である。そこを卒業した体育教師のほとんどが、 体育を教えないで ・・・・・・・・ 、「体育実技」と称して、大学のクラブ活動でやったスポーツばかりをコーチとしていることもまた事実である。だから、からだの仕組みや働きなどを教えることはしない。・・・・・・・・・(傍点筆者)

・・・・・・・・・。一人ひとりの子どもに与えるべき運動の量はもとより、質も考慮するようなことは、全くといっていいほど行われていない。もちろん子ども自身のからだに対する感じ方を把握するような努力は、一切なされていない。

部活動を指導する教師も「運動の思想」を確立する必要があるのです。子ども達を指導しながらも、子ども達と自身の運動の目的、そして身体の様子・状態を常に考慮に入れ、その時々の課題も考えてゆける「からだの自覚者」となるべきです。

◆練習を考える

部活動指導にあたる顧問教師は、また、活動の練習や活動の意味も、常に、追求すべきです。学校教育の原則にそって、子どもにも、父母にも納得できる運動や練習の理念が必要です。

部活動という教育の中におけるスポーツのあり方は、「スポーツを通じて、心身ともに健康を有し、主体的に考える子どもを育てる」ことが第一の目的となるはずです。さまざまな条件と課題に対して、主体的にかかわることができ、創造的で工夫をし、仲間との連帯と協調をはかる能力が、教育的スポーツの基本です。日々の練習も。そこから考え出さなければなりません。

練習について、ハンマー投げで有名な室伏重信選手は次のように語っています。

・・・・・・ただがむしゃらに身体をいじめていても上達するものではない。

練習は考えながらやるものだ。そうでなければ、単に疲労が蓄積するばかりであろう。絶えず問題意識をもって考え、出てきたアイデアを身体で表現する、それが本当の練習である

(『文芸春秋』1986年12月号)

アジア大会、五連覇。40歳にしてもなお、第一線で活躍する選手が語る「練習の考え」です。「絶えず考え、それを身体で表現する」この原則は、部活動の練習に、大きな示唆を与えています。スポーツでどんな選手を育てなければいけないのか、どんな選手にならなければならないか、同書で室伏氏は、また、次のように語っています。

よく、日本人は本番に弱いと言われる。確かにこのアジア大会でも、本来の力を発揮できなかった選手が多かったようだ。どうしてなのだろうか。民族性からきているのか。そうではないと思う。

選手が 自分の回路を本当の意味で身につけていない ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 。・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・。必要なことは、こういう回路をどのような条件下でも発揮できるように、しっかり身につけることだ。(傍点筆者)

練習の中で、常に考える選手にならなければならないことを指摘しているのです。この指摘は、日本のスポーツのあり方、指導者の考え方、練習の意味も、問いただしている内容なのです。

スポーツの入門であり、基礎活動である中学校での部活動の運動・スポーツは、あらためて「練習とは、考えることである」ことを基本にして取り組むべき内容です。

4.顧問が変われば部活は変わる

◆年配の名監督の指導から学ぶもの ——指導は特別の能力

さまざまなスポーツの全国大会が開催されています。全国大会ともなれば、活躍する選手のみならず、その指導にあたる顧問教師や監督も、たびたび話題になってきます。全国の頂点に立つと、必ず監督のチーム指導、選手指導のポイントや秘訣が、大きく報道されます。選手の能力を伸ばし、チームとして育てた指導者の手腕は、また誰もが聞いてみたい興味深い話しなのです。

才能を見抜き、それをみがく練習、チーム全体を結束かたい集団に変える指導力、どれも指導者のもつべき能力です。スポーツとして成功したこの指導者としての能力は、また、種々の経営や組織体の指導者にも、何かと示唆に富むものを与えてくれるからでしょう。

いかに人を育て、人を組織してゆくかという多くの社会の場面に共通する課題があるからです。

スポーツは、一定期間、しかも短期間で、活動の成果が表れ、その指導も特徴として学べるほど多方面に通じる人間集団のあり方、組織のあり方の典型を表しているものなのです。もちろん全国大会に出場できるチームともなれば、選手一人ひとりが相当以上の資質にめぐまれているはずです。施設やさまざまな活動条件も平均以上が普通です。

しかし、条件にちがいがある場合も、悪条件の中でも、勝者に導いた指導者の考えは注目されてゆくものです。

ところで、その時の指導者はたいがい、年配の監督、年季の入った好々爺然とした方が多いのです。見つめる視線は選手の調子を射抜き、的確に情況を読んでいます。一方、選手を語る時には思い入れから一線を引いて、冷徹な評価を下します。もちろん勝った喜びは顔に出しますが、どこか解説者のようにも見えながら、監督の目からの選手や試合分析に独自のものがあります。選手達の内面の心理・意欲・課題もほぼ把握しています。マスコミで取り上げられた名監督とは、白髪の交じった年配の監督が多いものです。若い監督で、頂点に立つ人は逆に大変めずらしいことです。たまにいてもその指導法は、あまり奥深いものとして評価されにくいようです。

年配の名監督を勝手に架空してみましたが、あながち誇張した像ではないと思います。ところで、年配者の監督と若い監督は、決定的に何がちがうのでしょうか。それは、選手を「的確にとらえ、指導できる」ということにおいてです。技術的指導、技術提示なら、若い指導者でも負けないと思います。若ければ実際にやってみせることもできます。

しかし、指導とは、人間関係・意欲をはぐくむというもう一つの大事な領域があるのです。これが年季の入った指導者は確立しているのです。次の二つの条件が指導には必要です。若い指導者は、後者が身についていない場合が多いのです。

①具体的技術の提示、課題指摘

②個々人および集団において、課題克服の過程、手順指示、意欲組織

後者を身につけるためには、まず、選手の内面の心理・意欲・個々人と集団の課題を把握していなければなりません。指導者とは、それら課題を選手の活動の中で的確に位置づけ、具体的に見通しを与え、克服する道すじ、条件を明らかにしたうえで、活動を組織できる人のことをいうのです。この二つを指導内容として自覚していて、どの場面でも的確に対応できる人が、すぐれた指導者といえるのです。

◆「指導」の意味を自覚することが大切

若い教師の部活指導がよく問題になるのは、年配の監督のように「子ども達(選手)が正しく見えていない」、「子ども達(選手)の意欲を適切に把握していない」ということが多いからです。自分のスポーツ要求、思いをそのまま子どもに押しつけてしまうのです。指導者であるなら、教えるべき事がらをきめ細かくくだいて子どもに納得させ、実感させなければなりません。若い教師の指導は、このようになりません。

なぜなのでしょうか。それは、「指導者とは特別な能力保持者」という 指導者像 ・・・・ が確立されていないからなのです。前述の指導者の条件が自覚されていないのです。指導とは、誰にでもできることではなく、特異な才能が必要であり、それを身につけるには多くの時間と修練が必要なのです。

指導者として、初めからスタートできる教師は誰もいないのです。指導とは、指導される子どもがいて初めて成立する関係です。教師になる前から、この関係の専門家という教師はいないのです。「子ども達の前で、教師は初めは指導のアマチュアからスタートする」、この認識が必要なのです。

ところが多くの教師は、子どもの前に立つとこれを忘れて自分は条件を充たした指導者と自覚してしまうのです。しかも、「子どもとの関係を創り出してゆく、変えてゆく役割」を意識するのではなく、子どもを目的に向かって直接動かそうという力に頼った飛躍を重ねてしまうのです。

とくに部活動の指導者は、みな自分が「専門家」だと思い込んでいる例が多いのです。指導の 責任者 ・・・ である自分は、同時に、 指導上の専門家 ・・・・・・・ だととり違えているのです。指導の力量を不問にして、指導者像だけを自分にあてはめてしまいます。

自分が専門的にあるスポーツをやってきたからといっても、そのスポーツで子ども達を育てられる指導者とは言えないのです。有名選手が必ずしも、名監督ではないのです。「自分がやってきたことを教えること」と「人を指導すること」はまったく別次元の活動行為なのです。このことを、部活動にあたる指導者は自覚しなければなりません。情熱で事を運びやすい若い教師の時は、とくに、強く意識するべきことです。どの指導場面でも子どもを指導する 特別な能力 ・・・・・ が、教師である自分に問われているということを知らなければなりません。

免許を持ち、教壇に立てば、いつのまにか自分は「指導の専門家」だと錯覚している教師に成長はないように、部活動の指導で、子ども達の意欲や自覚等、スポーツで導きだせない指導者は、いつまでもアマチュア顧問のままなのです。

そのような指導力量が停滞したままの未熟な教師によって、子ども達が指導されている現実を解放していかなければなりません。子どもを指導する専門家になるため、部活動指導教師は、「指導」の意味を自覚して、自分の指導力量を高めなければなりません。

若い教師の情熱に頼った部活動指導が多くの問題性を作り出している中に、「未熟な指導」の問題性を指摘しておかなければなりません。