月刊 生徒指導 1990年3月号(学事出版)にて特集された「力に頼らない生徒指導をどう展開するか」の中で小島 勇先生が執筆した内容を公開いたします。
今回の内容は前回投稿しました「全教師による体罰根絶宣言」にて宣言をするにあたって自身の体験から体罰を自覚し、指導方法を改善していったのかが書かれています。
※この記事は当時のものをWeb用に一部修正を加えたものとなっております。団体・名称等は当時のままとなっていますのでご注意下さい。
「体罰根絶宣言」の取り組みと従来の生徒指導の再検討
この論稿は、一公立中学校で稀有であろう全教師の手による「体罰根絶宣言」の採択をめざして実践を進めてきた筆者の、問題意識、動機を中心に報告するものである。
特集テーマにあるように「力に頼らない生徒指導」を展開する以前は、力を含めた指導もしていた筆者がそれを反省し、また、何が一番の「体罰否定」の理由・根拠となったのか、何が「体罰根絶宣言」の実践確立の動機となったのかを明らかにしていきたい。そして、なぜ「宣言」を全教師の問題とすべきと考えていったのかもまとめてみたい。(紙幅の関係上、実践課程、取り組み方法は省く。その記述は『子どもの人権』(母と子社)に詳しい。また、「体罰の自己史」は、月刊生徒指導 88年4月号に掲載がある)。
この実践の検討を通じて、同種の課題を持つ現場教師が、自他にかかわる体罰指導や「力に頼った指導」からのよき脱却を見つけ出し、良き実践の励みとなれば幸いである。
「体罰根絶宣言」
1989年(昭和63年度)2月6日、職員会議で次のような「体罰根絶宣言」を全教師一致で拍手承認、採択された。4年越し、13回の研修を積み重ねての承認である。
「体罰根絶宣言」
私たちY中学校では「平和を愛し、民主主義をおしすすめる人間となろう」の教育目標に示される、憲法と教育基本法を尊重した真に民主的な学校づくりを進めてきました。その一環として、私たちY中教職員は、1985年度から体罰・暴力を一掃する取り組みをしてきました。
学校教育法第11条には体罰禁止が明記されています。しかし、それにもかかわらず、体罰・暴力が生活規律を正し、非行を防止し、学習や部活動の成績をあげるために”効果がある”と考えられ、教育の場から一掃できないできたのです。
体罰・暴力は、子どもの自尊心を傷つけ、子どもに精神的にも肉体的にも苦痛を与えるだけです。そして教育にとって最も大切な教師と子どもの人間的な信頼関係を崩すものでしかありません。このような体罰・暴力は教育基本法にある「人格の完成」をめざす教育とは全く無縁のものです。
私たちは、研修を重ねる中で「体罰・暴力は教育ではなく、教育を放棄、破壊するものである」との認識を深めました。したがって教師による子どもたちへの”暴力”や、子どもたちに辱めを与える非人間的な”体罰”をY中学校から追放し、根絶していきます。
そして、子どもたちの健やかな成長を保障するため、さらに全職員の一致した指導で体罰・暴力のない豊かな教育を創りあげていくことを決意し、ここに宣言します。
1989年2月6日
Y中学校教職員一同
(付記)この宣言は年度当初申し送り事項とする。
この実践は、一公立中学校の教育実践上の指針、目標、教師の意思表明にすぎないものであるが、今日の学校教育の課題と教師の指導を再考する上では、大きな意味を持った実践となっていると自負する。今後、この実践がさまざまな角度から検討されていったら、さらに意義を増すと考えられる。
宣言によって、さらに明確となった課題
宣言によって、明らかになった教育実践上の課題を簡単にまとめておく。それは「力に頼らない生徒指導」に直結する課題を明らかにすることでもある。
まず、宣言の意義をまとめ、次に課題を列記していくことにする。はじめに、生徒指導上における意義は次のように捉えられる。
①「宣言」は、全教師による”体罰の指導は「暴力を学習させている」こと”であることを確認し、力と服従の形態による指導から、「非暴力の大切さ」と人権と信頼による教育実践の展開にむけて努力していくことを意思表明したものである。
②「宣言」は、今日のさまざまな指導場面、課題に直面した中でも、子どもと教師の間に「信頼をもとにした教育の関係」を作りだし、安定した生徒指導を展開すること、そのような実践と指導を追求することを決議したものである。
この全職員の手よる非暴力の意思表明は、教師にとっては権力的で管理的な生徒指導からの転換を示し、子どもに対しては「子どもの人権」を尊重し、教育実践の中にそれを確立していくという二重の意味を持っている。同時に、日常の生徒指導の中にあって、二重の相対的位置、検証の視点を教師が共有したことでもある。
宣言には展望がある、温かく丁寧な、信頼を基にした生徒指導への具体的な追求である。子どもと人格的にも尊重し合い、良い影響関係を持ち合う教育のあり方を志向しているのである。
子どもを大事にするという教育理念は、昔から教育現場では掲げられてきたが、具体的な実践上の課題として提起され、実現対象にして設定された事例は少ない。宣言が切り開いた意味はそこにあり、また、だからこそ宣言にかかわる課題も、指導の上で基本的課題となってくるのである。
次のような実践上の課題が、教師一人ひとりに問われているといえよう。
①人格と人権の尊重、互いの信頼を作りだす具体的な指導の方法を意識的に追求していく。
②そのような指導方法を、全教師が日常と研修の中で磨き、指導技術として共有していく。
③教育法11条の「適正な懲戒権の行使と方法」および教育的罰の与え方等の研究を具体化する。
「体罰を教師の指導から切り離し、それを脱却した所から生徒指導を展開していこうという教育方法を意思表明した教師にとって、それを具体化させる「方法」と「方法論」の研究、また、それらを共有化させていく研修の積み重ねという新たな重要な課題を、以上のように明確にしていくのである。
(この実践上の課題、特に「信頼をもとにした指導」に有力な展望を与えるものとして、トマス・ゴードン『T・E・T教師学』(小学館)がある。注目すべき方法論である。この研修を実現させることは、現在の硬直している生徒指導を大きく変換させることにつながっていくことは間違いない)
「体罰指導」を行っていた自分
学校全体の宣言名は「体罰・暴力根絶宣言」である。概念の丁寧な規定表現をとっているが、自分の中で「教師の体罰を克服してゆく”宣言書”」の確立の必要性を明確に意識しはじめていったのは1986年(昭和60年)であった。
当時、校内での生徒指導委員会は、A氏を代表に、「子どものいじめ」をはじめ、さまざまな問題を全体研修会で取り上げ、校内の生徒指導の研修を活性化させていた、年度も押し迫った3月上旬に「体罰」についての全体研修会がもたれた。当時における体罰肯定論・否定論の文献を整理し、B4判紙6枚にわたって整理したAレポートは、現在から見ても高く評価出来る内容のものであった。また、この全体研修会とレポートは、具体的な体罰克服の方法と実践の糸口を模索し始めていた私を強く刺激するものであった。
研修会の中で、私は「体罰研修を発展させ、全職員で体罰根絶宣言をつくり、決議していくこと」の大切さを提議した。その気持ちの背景には、1981年(昭和57年)をピークにした子どもの荒れと反抗、その後の子どもたちの変質と問題行動に対する指導と苦悩の課程で、従来までと違った生徒指導の大きな変換期が来ている事を意識し、その実践モデルを具体的に作り出していかなければならないという強い決意があった。当時は、自分の「力も含めた生徒指導」の自己点検と変換の模索が続き、体罰指導からの安定した脱却方法を求めて、指導にかなり迷っていた時でもあった。
また、それまでの生徒指導で体調も気持ちも疲労のピークにあった時である。「体罰根絶宣言」の提議の中には、今後の自分の教師としての活動の展望と光明、見果てぬ新しい実践を求めての救いにも似た気持ちと願いがあったのである。
私はそれまで、必要とあらば「叩く側の教師」であった。「子どもが悪い時には、心が痛いか、身体が痛いか教える」のが教師の役目と、本気に考えていたのである。罰を与える事、叱ること、時には叩くことも、教師が当たり前に持つ権能と考えていたのである。これは、自分が育ってくる過程で自然と認識されてきた「教師像」であり、また、教師になってからも、ごく当然の認識としていたものである。
したがって自分の懲戒(叱ること)は、生徒を叩いても「体罰」とは考えていなかった。自分の懲戒は「指導」であり、「体罰」とは切り離していたのである。
ここで当時の、そうした自分の指導の構えをもう少し検討してみることにする。
自分の教師としての姿勢の中に、子どもに反省と向上、意欲を持たす罰を与えることは必要であり、その1つとして「教師は叩いてもよい」場合があり、特に弱者いじめ、差別、無法、無礼な子どもの言動に対して実行してもよいという考えがあった。その教師の懲戒は、子どもの悪さを反省させ、子どもとの人間関係をそれ以前より深くさせるとともに、より手厚く面倒をみていくという前提、つまり<保護者と同等に近い懲戒と罰>であるべきだと考えていた。
一方、「体罰」については、一般にいわれる「体罰」とは一線を画した指導観を持っていた。「教師の体罰」に対しては批判的であり、時には憎しみと怒りさえ持っていたのである。
つまり、「体罰」は、教育上許されない罰の考え方「教師の暴力」であると考えていた。教師の一方的で感情的な懲戒、子どもの言い分をも認めず、子どもに反省と決意を導かない罰が「体罰」であり、「教師の暴力」であると考えていた。
それは自分の叩く行為とは異質なものである。自分の懲戒は客観性を持っており、たとえば学校の中で子どもが悪さをした時には、それをはっきりと叱る、あるいは、必要な時にはコワい先生がいることを示すことも大切であると考えていたのである。しかし、このような自己客観性の見方・信念が、1980年(昭和55年)頃より揺らぎ出し、体罰と生徒指導への自己検証が始まった。厳しい生徒指導状況への直面、広島修学旅行実践での人権追求など、内と外における点検と関係しつつ、模索と苦悩の中で86年の「体罰根絶宣言」の提議へと続いていくのである。
「体罰」の自覚、そして反省、自戒(内因)
生徒を叩くことも含めた指導のあり方を自己検証し、契機となっていった事柄を取り上げてみたい。
厳しい生徒指導との直面(1981年)
学校の大規模化の中で、まったく教えたこともない新3年生の担任となり、さまざまな問題を突き出す生徒たちの指導に当たることになった。彼らはそれぞれの生育歴と生育環境の中で大人への大きな不信と攻撃性を持った子どもたちであった。卒業までの一年間、さまざまな問題行動を繰り返した。大人への不信とともに、何人かの子どもは小学校時代の指導や中一の時の被体罰指導によって「教師への不信と敵意」を、問題を起こす度にぶつけてきた。教師たちは、それまで遭遇したことのない子どもの不法かつ不合理、でたらめな生活言動、深刻な生育環境など幾多の問題の前で有効な指導の手がかりを作り出せないでいた。問題の子どもを叩いて指導することもなかった。叩けるだけの関係ができなかったのである。
従来までの「子どもが悪い時には叩いてよい」という信念は、安定した指導の関係の中で成立していた懲戒方法であった。しかし、問題生徒の突き起こす事件に対しては、従来の罰や懲戒が通用するはずはなく、それ以前に、従来の生徒指導観、生徒指導の方法とは異なる、新しい関係づくりが問われてきていたのである。
子どもの急激な変化の前で、それまで当然視していた「力を含めた生徒指導」の根本的変換の必要と模索が始まっていたのである。
「子どもの人権」の発見
自分の「叩く指導」を「体罰(暴力)」と認識できたのは、「人権」という実践上の課題概念に直面したことによる。叩く指導を「体罰」と自己認定するためには、その指導行為と意識そのものを客観視、相対化する検討概念が必要だったのである。
1980年(昭和55年)に膨大な準備と取り組み過程をもって、埼玉の公立中学校で初めての広島修学旅行を実施した。事前に8ヶ月に及ぶさまざまな「平和学習」活動を展開し、旅行実施後も、広島と戦争についての個人的な学習を続けていた。そして夏に、民間研究団体「教育科学研究会」の平和教育分科会に参加した。そこで永らく平和運動を進めてきた被爆者の方が話された「平和教育は人権をめざす教育です」という言葉は、自分の意識の中に大きな重さを持って飛び込んできた。
平和学習や広島修学旅行が「人権」をめざす教育実践であるならば、日常の指導の1つひとつも「子どもの人権」の追求にふさわしい内容にしてゆく必要がある。そう考えたとき、大きな衝撃が走った。自分のこれまでの指導行為の検討と教育実践の検証をせざるを得なかった。
叩いてもよい場合があるという自己納得が揺らぎ、「叩かないで指導した方がさらによい」という気持ちが強くなってきたのである。つまり、人権を保証してゆくことの認識の確立が、それまで見えていなかった「力を含めた指導」の抑圧性と権力意識の問題を自分にわかるようにさせてくれたのである。ここにきてはじめて、自分の叩く指導が「体罰=暴力」であると認定できたのである。
心情変化とカウンセリング的対応
1980年頃より、自分の叩く指導を、心理的にも後味悪く思うようになってきていた。自戒と反省心も強くなってきていた。問題行動の生徒に対して常に前面に立ち、厳しい指導で立ち回ってきた自分の気持ちも身体も、疲労のピークであった頃である。この頃、叩かなくても済む場合にも、”感情的な怒り”で叩いている事例が増えていることにも気づいていた。疲労とフラストレーションから、子どもの問題行動が癇に触り、感情的な対応として体罰指導を実行してしまっていたのである。疲労した精神と心情、そして、先が狭まってきているように見えてきていた自分の指導への不安定な心情から、何とか具体的脱出方法と展望を作りださなければならないと考えてきたのである。
また、この頃の同僚で後輩教師であるF氏の指導からも大きな示唆を受けていた。彼は問題をかかえる子どもたちに対しても叩くことなく、時間をかけて温かく丁寧に指導をする教師であった。どちらかといえば、硬直しがちな生徒指導しか知らなかった私にとって、それは新しい生徒理解と指導の方法であった。そうした指導の方法の違い、質的な違いを知る中で教師と子どもの豊かな関係が作りだせる道があることを自覚してゆくこととなった。
体罰死事件からの問題意識
自分の指導にからみついた体罰指導から、信頼を前提にした生徒指導への転換を求めて、1985年(昭和60年)頃より「温かく丁寧な指導」という自分の言葉を、自分の教育実践の目標としてくり返し使うようにした。
一方、この当時は、自己の体罰の検証以外の問題として教育現場で「教師の体罰による死亡事件」が相次ぎ、自他の体罰表現そのものを「教育と学校の問題」として考え、個人による克服努力のみでなく学校全体の教育実践として取り組む必要性を感じ始めていた。
1985年、中津商業高校、岐陽高校事件。1986年、川崎市桜本小、愛知東部中、石川県芦城中事件。いずれも被害生徒死亡。指導上の過失とはいえ、「学校における教師による殺し事件」である。相次ぐ体罰死亡事件の背景には、学校教育の特異な権力構造、硬直した精神と感性、独特な懲罰があり、これらの底を流れる複雑な関係に支配されている教師の位置と問題性を、現場教師自らが解明し、その不幸な事件からの脱出方途を考えなくてはならないと考えるようになったのである。
折しも、学校の管理強化、教師の体罰の問題がマスコミをはじめ各方面から鋭く批判されている時でもあった。私自身は、さまざまな問題の発生は、子どもの急激な変質と旧態依然の学校教育制度との大規模な衝突・軋轢から生じてきていると見ていた。そして、この現象を的確に読みとることで新しい生徒指導の方法と方法論が具体化されると考えていた。また、かつての自分の体罰指導も、報道された死亡事件と共通の問題性を強く持っていることも自覚してきていた。
自分の体罰指導も、「運が悪ければ」「不覚にも」「行き過ぎれば」殺しの事件になったかもしれない。教師の体罰は、類似性を持つ問題であり、教師共通の問題現象なのである。それらは、学校全体の指導体制と子どもへの教師の指導のかまえが大きくかかわっている。また体罰事件は、学校教育制度の機能上の問題であり、教師の存在そのものに関わる問題でもある。
もともと体罰指導は、教師個々人が固有に展開している行為であるが、その指導の方向や考え方の根底には、その学校特有の指導形態があるものである。その底流の思想に触れる触れぬは各教師によって異なるが、生徒の指導の方法をどのような力で規定し、日常どのように方向づけているかは、教師は互いに暗黙の了解でわかっているのである。体罰指導も、この暗黙の了解、不可侵の意識で成立している。教師の体罰の検証のしにくさ、体罰克服の難しさもここにある。生徒指導を推し進める「力」は必要であるが、それが「体罰」という力に依拠すればするほど、教師は互いの指導の内実に触れることを避けてゆくのである。
教師は「暴力的な力による支配」に対して痛いほどの心理的弱点を持ち、その直視を避けている。しかも現実的にも、自他ともにそのような「力の支配」の関係・構造に置かれていることを考えようとしない。学校教育制度が持つ「力の構造」を解明し、適切な力の分散と行使による”温かく丁寧な指導”の育成を図り、「暴力という力の行使」を禁止させる実践がどうしても現場教師に必要なのである。
いずれにしろ、多くの体罰死事件に共通する「力による制裁(私裁)」の方法を、個々人の教師の過失とみてはならない。個人の教師が「体罰指導」を実行する時、その指導を育む生徒指導観、他教師との関係、また学校全体の情況、そして同時に、学校教育制度そのものも検証すべき対象として考えてゆかなければならない。
自分の体罰指導の検討と生徒指導の変換を模索していた時の相次ぐ「教師による体罰死亡事件」は、人ごとではない深刻さで、大きな教育実践上の克服しなければならない課題として自分に迫ってきたのである。
つまり、個人的努力による体罰根絶ではなく、学校ぐるみ、教師全体による「体罰根絶の方法と実践」の実現である。このような実践は、深刻な課題が問われた教育現場、各学校全体に共通する問題でありながら、まったく未開発、先行実践のない、複雑で難しい課題をもつ取り組みであった。
1986年(昭和61年)三月の校内研究会での「全教師による体罰根絶宣言の決議」の提議も、教育実践上の重要な意味を確信し、展望ある実践を考えての意見であったが、その実践の方法や見通しについては確固たるものは持っていなかった。
しかし、「体罰根絶宣言」の取り組みが、自分に生徒指導の変換と向上をもたらし、同時に、教育現場で「力に頼った指導」に呪縛された教師の指導方法と思考をも解放に向けてゆくものであること、この二つの重要な意味は確信していたのである。
実践を急がせた2つの出会い
学校ぐるみ、全職員による体罰根絶宣言の実現を急がなければならないと決意したのは、次の2つのショッキングな出会いによる。1988年(昭和63年)、「子どもの人権と体罰研究会」(8月21日、22日、東京大学)への参加と、「体罰」(日本放送出版協会)を読んだことである。この2つの出会いから、現場で体罰克服の実践に取り組まなければならない、グズグズしている時ではないと思ったのである。
「子どもの人権と体罰」シンポジウム
2日間のシンポジウムの中での生徒の父母の報告は、教師告発と恨みに充ちていた。相次ぐ教師の体罰、殴られ痛めつけられて、心も身体も深く傷ついた子ども、親の厳しい怒りと教師・学校への糾弾。これら相次ぐ告発、批判に大きなショックを受けた。
報告の中味は、教師によるリンチであった。明らかな暴行、犯罪である。同席の医師は「これは間違いなく、教師のレイプである」とも言った。教師の無法、犯罪がまかり通っている。閉じられた学校・教師の姿勢、弁解と不義が次々に明らかにされていった。
現場教師の参加は、極端に少なかった。私はいたたまれず会場発言者として学校の現状と構造的な問題現象の側面、現場教師の多くの努力を発表した。父母と研究者とともに展望ある教師の歩みの方向を求めての発言であった。
しかし同時に、体罰が学校と教育の中で発生していることなのに、学校・教師がその解決システムを持たず、体罰問題に対して父母を閉め出し、保身ばかりしている問題性も深く考えざるを得なかった。教育現場自体が解決能力を持っていないのである。学外で厳しい告発、チェックが始まっているのに、教師と学校そのものが自ら解決してゆく方法を具体化していないのである。
シンポジウム参加による衝撃は大きかった。教師が何を言いわけをしようと、体罰問題については、殴られ傷つけられた子どもと親の心情・苦痛を共感できる立場から再考してゆかねばならないと思った。そして教育の営みの中にそのような教師全体の指導を相対化させる指導指針・理念づくりが必要であると思ったのである。その理念は「子どもの人権」を明確にしてゆくものであり、「人格の尊重と信頼」をもとにした生徒指導の追求であり実現であることも痛切に感じとったのである。
岐陽高校体罰死事件
昭和61年10月に出版された『体罰』の「岐陽高校体罰死事件」(昭和60年5月)の記述からも強い衝撃を受けた。被告雨森先生の法廷での証言は、自分が課題追求してきた「学校教育現象としての体罰問題」そのものであった。
雨森先生は、前任校までの13年間、体罰をふるうこともなく、生徒からも親しまれていた教師である。また、浄土真宗大谷派の住職でもあった。
生徒指導体制の厳しい岐陽高校に赴任してからは、体を張って体罰指導している教師たちの中で「指導が甘い」と指摘され、不熱心な教師という心理に追い込まれてゆく。赴任1ヶ月後の5月、修学旅行先の宿舎で、禁止のドライヤーを使用していた自分のクラス生徒3人に同僚教師とともに体罰の指導を行う。
「お前たちを信用していたんだぞ、なぜ裏切った」
叩かれ、腹を蹴られ、みぞうちを踏まれた高橋利尚君は、意識不明のまま末梢循環不全によりショック死。
裁判長:体罰を加えているうちに興奮して、加減できなくなったのではありませんか。
被告:私自身は冷静な性格だと思っています。われを忘れたことはありません。でもあれはアッという間の出来事でした。(29頁)
子どもに対する典型的な教師のかまえ、体罰指導の特徴が出ている。一生懸命やればやるほど、また、子どもに対して強い信頼幻想を持つ教師ほど、「子どもの裏切り」と「信頼期待」の現実に対し、怒りを持つのである。身についた「教師性」である。教師は「学校教育制度」の中で、”子ども”に対峙した瞬間から「指導性(権力性)」を持ち、評価、激励、指導、制裁、同情、相談者として「教師性」を発揮してゆく。この教育制度と教師自身が作り出す「教育幻想」に規定された”教師の役割・意識”の深層に「アッという間に」体罰を許容してしまう部分があることを、岐陽高校事件は教えてくれている。また、雨森被告は、教育情況の中で教師の対応、指導や理念も、易々と変わってしまうことを教えてくれているのである。
私はこの本から、裁かれているのは雨森被告だけではなく、自分自身であり、同時に「学校教育制度」と「教師全体」であることも感じとっていた。情況によっては、自身の心情変化次第では、「いつでも殺す側に立つ教師性」が発揮される問題である。また、かつて叩いてきた自分も、いま現在、体罰指導を是としている教師も、不運が重なれば、いつでも被告の席に立つ可能性はあるのである。
現場の中に「内なる歯どめ」
体罰の指導を個人の教師の問題に還元してはならない。もちろん体罰指導は、個々の教師によって考え方も見方も大きく違うところである。実行する、しないも個人の教師に関係してくることである。
しかし、私たち現場の教師が見なければならないのは、「学校教育制度上に発生している体罰」であり、「教師による過失死亡事件」の問題性である。私たち教師の教育活動の日常の場で起きてきて、かつ、今なお未解決である問題性を直視しなければらならい、ということである。そうした教師共有の問題性を、現場教師が認識しないかぎり、問題の本質は見えてこないのである。体罰指導による教師と子どもの両方の不幸事、教訓を生かしてゆかなければならないのである。
まずは、「体罰指導」をとりあえず禁止させることである。「内なる歯止め」(下村哲夫)の具体化である。そして、そこから「力に頼らない生徒指導」のスタート、教育実践を模索し、実現すべきである。
「体罰指導」と「力に頼った生徒指導」からの変換システムこそ大切である。体罰指導の暴力性と危険性を断絶し、「信頼と尊重」による生徒指導へ変換する視点が必要なのである。この問題は、全教師の共有実践、共通の自覚と認識から始まっていかねばならないものである。
Y中学校での「体罰・暴力根絶宣言」は、まさに、その願いと新しい実践への展望を求めた宣言なのである。
体罰根絶の実践を具体化させることには大きな意味がある。教師の体罰、特に、私たちにまとわりついた「力に頼る指導」を追求することにより、教師に附着している権力構造、教師性、教育幻想が見えてくるのである。同時にこれを支える国家教育の制度と機能、問題性、さらに展望も見えてくるのである。その結果における体罰根絶の実践は教師間相互の閉鎖心理、抑圧性も解放し、子どもの豊かな信頼関係をも作ってゆく筋道でもある。
そして、それは何よりも、雨森被告の罪科の苦悩を全教師が軽減させてゆく努力方途であり、亡くなった高橋利尚君への教師たちによる心からの供養につながってゆくことである。
私たち教師は、教育の現場の中に起きている暴力と不幸に目をとじてはいけないのである。
裁判長:今の心境は?
被告:高橋君に申し訳ない。ご遺族の方へも申し訳なく——ついらいです。自分自身の行為を考えると、本当に——これから私にもし残された時間、残された人生があるのなら、めい福を祈ることで費やしてゆきたいと思っています。(29頁)
私たち現場教師には、まだ取り組むべき、たくさんの課題がある。また、時間も、場も、あるのである。教師と子どもの豊かな人間関係を作るために。