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私たちの広島修学旅行

本原稿は1982年に発行された『教育実践』第33号(民衆社)に掲載されたものです。

Web表示用に一部修正を加えたのみで、地名・団体名その他表記も当時のままとなっております。お読みになる際はご注意下さい。

私たちの広島修学旅行

―クラス平和アピールに願いをこめて―

昨年度、埼玉県下で初めて中学生として広島県を訪れた実践を学年教師集団のとりくみを中心に報告します。

1 1・2年の指導から

Y中では、入学式から卒業式まで学校行事および生徒会行事の検討を重ね、今では、それらは子どもの民主的な活動の場であり、それぞれの意味と目的が子どもたちに明確にされ実践されるべきであるという理念が確認され、その主旨を生かしたとりくみが活発におこなわれています。

ここで紹介する学年も1年次では、学年集団づくりの活動を意欲的にすすめてきました。学年集会を基軸とした基本的な生活習慣の確立ととりくみ方法の指導、学習面では、到達度学習や班学習のとりくみ等の訓練等です。

2年次では、林間学校を従来のものと根本的に変え、クラスごと民宿に分かれ、さらに班ごとに分担を与え活動させました。すべての者が集団の一員として主体的な係わりを持つとりくみがおこなわれました。3日間の日程を子どもたち自身で考え出してゆくことを要求し、事前から、早朝マラソンの体力づくり、テーマソング合唱など幅広く活動させました。民宿の人々から学ぶ集会、教師とテーマ別に討論する深夜討論会など、多くのとりくみが広島旅行の土台として引きつがれていきます。

2年生の後半からはY中の指導学年としての意識をどうつくり出すかということ、また修学旅行を指導の中にどう位置づけていくかということが学年会で検討されてきました。

2 修学旅行の検討

私たちは、修学旅行そのものを3学年初めのすぐれた教育実践上の機会と考え、学年づくりのため有意義に活用することを一致点とし候補地をいくつかあげ検討に入りました。3年前、修学旅行を「伊豆大島」で思いきって実施し成果をあげたこと、また、林間学校で得た素朴な環境とすばらしい自然をふたたび連続して体験させたい考えもあり、学年会議は討論がまとまらず長い間拡散状態でした。そこで学年教師は、数人ずつ分かれ、(a)従来の奈良・京都、(b)日本の現状を学ぶという観点から東北・中部、(c)平和教育の起点としての広島、(d)大島の4候補地について、①生徒に身につけさせたいことは何か、②どんなとりくみが考えられるか、③費用・交通機関、④利点として問題点など具体的につめていき原案をつくり比較検討をしました。

この過程の中で、広島は他のどの場所よりも意味深く、そして私たち教師の指導の方向と深く関係するものであることがはっきりしてきたのです。4つの候補では異質な印象を持つ広島は、討議をくり返すほどに重みを増し、全教師の勇気ある決断を必要としてきたのです。結論は、ほぼ広島にしぼられたのに、しばらく決定できなかったのは、広島修学旅行が子供たちの内面に深くかかわることを知りつつも、それがどのように形成されるのか、また私たち教師の役割はどのようなものなのか誰一人知らず不安があったことでした。

3 広島修学旅行への決断 ―平和教育研究所への講和依頼―

戦後35年、戦争を知らない世代が増えてきている。もちろん教師もその例外ではない。そういう中で、私たちは不十分ながら話し合いを続け、「原爆に戦争が象徴されている。その戦争を教え、平和を語りつぐために広島を修学旅行の目的地にしよう」という結論になりました。

日常的な平和教育のとりくみも少なく、また広島を訪れた教師すら1人もいないという状況の中で、広島を修学旅行の目的地に決定するということはかなりの危惧の念を持ったのが事実です。しかしながら子どもたちや私たちが置かれている状況を考えるに、これを起点にし平和を真摯に考え、子どもと共に学び、教えていこうということで下記のようなとりくみの過程を考えてみました。

原爆投下に戦争が象徴されている

そのために

①原爆による惨状を知る

当時から現状まで続く状況

②戦争の惨状を知る

戦争の起こった理由を知る

戦争の起こる理由を知る

①、②を通じて戦争の実態を知る

そのために、昨年来、修学旅行に向けて平和教育研究所出版部発行の副読本「ひろしま」を使用した学習、調査活動や県内の被爆体験者の方から話をしてもらうなどのとりくみをすすめてきました。

しかしながら教師は力量不足等もあり、その場の感情の高まりは見られるものの、それを継続的な意識の変革につなげていくことにかなりの困難性が見られました。広島は地理的にも子どもの意識の中にはやはり遠く、その事を私たち教師は深く受けとめた上で、子どもたちに継続的に意識をゆさぶり続けるとりくみをすすめること、また、現地(広島)の体験が精神的に大きな衝撃となること、そしてそのことを平和教育の出発点にしようと確認しあっております。

その意味で、現地で関係者の方々から直接「広島」を訪れ「広島」を学ぶ意味、また、翌日のとりくみの中にある碑等にまつわるお話を御拝聴いただければ、子どもたちの気持ちの準備も整い、修学旅行のとりくみの意義を一層深めることができるものと確信しております。

4 決定後のとりくみ(2年次)

私たち学年教師集団はほとんどが戦後生まれの直接戦争体験を持たない教師たちでした。また、広島に行ったこともなく、何ひとつ手がかりさえ持っていませんでした。

この状態からさっそくとりくんだことは、①関係資料収集に全力を尽す、②先進校、東京葛飾区立上平井中のE先生を訪ね、その実践を学び、現地で交流していただける人たちを教えてもらう、③下見(第1回目)で広島を直接見てくることでした。

その後、修学旅行の大まかな骨格を組み立て、職員会議に提出し、新しい修学旅行として歩み出しました。子どもたちには、クラスごと担任が広島に設定した理由を説明し、それに対して班ごと質問を出し討論をする学級会議を開きました。学年教師の一致した立場「みんなと全く同じ立場で、同じレベルから共に学んでゆく」姿勢をはっきりさせ、その願いと方向づけを明確にし子どもたちに口火を切ったのです。

続いてすぐに第1回目の学習会を副読本「ひろしま」を使用して実施しました。まず、文学作品をとりあげ、子どもたちの感性や心にうったえる方法にしました。

副読本の「被爆の苦しみといかり」の記述を読み、語り合う学習会の中で、子どもたちの表情も確実に揺れ動き、広島修学旅行を知らされた直後のなにかしら的を得ていない雰囲気とは全く異なり、真剣な気持ちが浸透し始めました。教師側の十分な学習会の準備以上に、簡潔ながらすぐれた副読本「ひろしま」は一読して完全に子どもたちの気持ちをとらえ、強い衝撃を与えるものだったのです。この時から厚いノートを渡し「修学旅行ノート」としてすべての活動を記入させてゆくようにさせました。

第2回学習会では、一変して、原子爆弾の大きさ・構造・破壊力など、具体的事実を把握することを要求しました。6つの課題を与え、班分担で文献調査活動をおこない発表会を開きました。

その後、間もなく広島市民がかいた被爆直後の絵のスライドを見せました。子どもたちに対し、感性的なゆさぶりと学習のまとめという二面を交互に指導にくりこみ学習会を深めてゆきました。

2年生最後の第3回目学習会として被爆直後の広島に入り、その生々しい体験を持つ堀田シズ江先生から、直後の広島の様子や、その後の先生の平和運動の活動など「私の歩んだ道」と題して、お話をしていただきました。父母の参加の中で子どもたちも真剣にメモをしたり、質問を出すなど今までとちがって体験の重みが伝わってきた貴重なとりくみになりました。

5 本格的なとりくみ、子どもたちの活動(3年次)

新学期。第2回目の教師の下見は、クラス編成を終え、3年生として新しくスタートした生徒たちに、修学旅行の具体的な活動が始まったことを意識させるとともに、再度、広島の内容に深く集中させてゆくのに重要な意味をもつものでしたので、出発前も意図的な働きかけをしました。班別に下見の調査依頼書を提出させ、同時に様ざまな活動の予告も知らせました。もちろんこの下見は修学旅行の最終的なプログラムをつくるための準備でもあったのです。生徒と交流していただける方々の訪問、被爆者の方々との話し合いと当時の状況や慰霊碑にまつわる話しの依頼、さらに現地行動の指針となる調査すべてにわたっていました。

下見後、ただちに報告のための学年集会を開くとともに、学年教師による指導計画が念入りにつくられました。

とりくみは3日間の日程表を提示し、子どもたち自らが内容をつくり出し活動をうめていくような形式をとり、学年全体に係わるとりくみには学年生徒会を、クラス別では班を基礎に数多くの課題を全面的に与えておこなわれました。

<主なとりくみ>

  • (1)副読本「ヒロシマの旅」を使用した一斉自宅学習・自主学習プリント課題まとめ

  • (2)特別朝自習「ヒロシマの旅」を使用して、現地到着時からの調査項目づくり

  • (3)資料館・記念館での調査項目づくり

  • (4)平和公園での1人1碑分担と資料まとめ

  • (5)班別碑めぐりコースと活動

  • (6)個人平和アピールづくりと発表(出発まで学活時に全員が読み上げる)

  • (7)クラス平和アピールづくり

  • (8)クラス慰霊式プログラムづくり・活動

  • (9)事前の手紙書き・連絡(関係の方に)

  • (10)映画「ノーモア・ヒロシマ」「ピカドン」の鑑賞

  • (11)広島まで走ろう(930km)早朝マラソン

  • (12)ヒロシマに向けて特別合唱練習「桑畑」「原爆ゆるすまじ」他

  • (13)社会科による特別講座「世界恐慌から終戦まで」

私たちは、これらの中で現地にてクラスごと関係者や被爆された方から慰霊碑にまつわるお話しをしていただくこと、そして慰霊式をクラスごとのおこない、その中に平和を願う「クラス平和アピール」を読みあげることを一番重要なとりくみとしました。子どもたちの様ざまな学習の総まとめと広島に行く意味を明確にするために、戦争や平和のことなどどのようにとらえたか書かせ、発表させ、討論をさせ、それをまとめてゆく方法を「平和アピール」のとりくみ過程としたのです。そのために、まず、平和公園にある様ざまな慰霊碑の中から1人1碑ずつ分担をし、その碑に関する資料まとめと班内の説明をし、個人平和アピールづくりを(分担碑を思いめぐらし)書くとりくみにしました。それを毎日の学活で、1分間スピーチとし自分の意見として発表させました。同時に、班朗読会から班代表を選出し、クラス平和アピール起草委員会を構成してゆきました。

6 クラス平和アピール

私たちは、今、戦争のない平和な世界に住んでいる。だからこの日本の広島というところに原爆というものが落ちた、ということには、まったく興味がなかった。しかし、原爆の事についてとりくんでいく中で、原爆がとっても恐ろしい物で、そのために何十万人という罪のない人びとが死んでいったということがわかってきた。

今、私たちは実際に、その原爆の落ちた広島に立っている。

現在広島は、原爆が落ちて地獄のようになったとは思えないほどのとても美しい都市となっている。しかし、その陰には何十年たった今でも、原爆のために苦しめられている人がいるのだ。

そんな広島へ、平和というものの尊さ、二度とあのような事をおこしてはいけないということを学ぶために、第一歩をふみ入れるのだ。戦争を知らない子どもたちの代表として、いろいろなことを学ばなければならない。

・・・(略)

・・・

被爆者は、今、大きく分けて3つの願いと要求を持っています。

第1は、健康の問題です。原爆は、熱線と爆風のほかに放射線障害をともないました。その結果、ガンなどの病気をひきおこし、しかもいつ発病するかわからない不安がつきまとっています。

第2は、生活の安定と、失ったものに対する補償の要求です。被爆者の中には、健康がすぐれないため十分働けない人がいます。

第3は、核兵器の全面禁止と世界平和の要求です。被爆者はだれよりも、原水爆による被爆者を二度と出さないことを心から願っています。

原爆は、たんに大量の人間を殺傷し、家屋などを破壊しつくしただけではありません。すべての生活と環境、そして地域社会そのものを破壊したのです。

原爆は、生き残った被爆者の命と健康を長期にわたっておびやかし、被爆をまぬがれた者を含めて家庭生活を破たんさせるなど、人間のからだ、くらし、こころの破壊をもたらし、その傷あとは今日もなお続いているのです。・・・(略)・・・(3の1)

・・・・・・

よく考えると、私たちは「平和」という言葉をかんちがいしてきたのです。平和とは、戦争がないだけではなく、それが永久に続くようにしなくてはならないのです。私たちはもう一度「平和」ということを真剣に考えなおさなくてはならないのです。

戦後35年の歳月が戦争へのにくしみや平和への誓いを忘れさせようとしています。しかし、このまま忘れてはいけないのです。戦争が自分たちと無縁のように錯覚され、忘れられてゆく今、皆が戦争や原爆の恐ろしさを認識しなければいけないのです。広島の修学旅行の目的もそこにあると思います。原爆投下という事件を通じて皆が原爆の恐ろしさはもちろん、戦争についての考え方を、この旅行で明確な物にして何かを学びとらなければなりません。

・・・(略)・・・

被爆者や戦争経験者の少なくなる今、今度はわたしたちが貴重な事を学んだ私たちが、戦争の恐ろしさを次の世代に伝えなくてはいけない。さもないと、また戦争がおこってしまうかもしれないのです。そのためにも、「戦争は二度とくり返してはいけない」ということを深く心に刻んでおかなければなりません。

現在私たちは、平和な生活を送っています。しかし、世界中が、平和であるといえない現在、それでもよりよい平和を私たちはめざさなければいけません。平和運動や原水禁大会、核兵器禁止のための世界的運動が大人たちの手でおこなわれています。

しかし、中学生として私たちができることはなんなのでしょうか。中学生である私たちに今できることは、歴史や科学をはじめいろいろな知識を身につけ、戦争のおろかさを学ぶことだと思います。

また、私たちの中にはいろいろな苦しみから自らの命を縮めるような仲間が出てきたりしています。非行も例外ではありません。今広島に来たことをきっかけに、私たちは人の命の尊さを深く知り、自分の生き方をしっかり考える人間になりたいと思います。

「私たちは願います。」

(全員)「永遠に平和であることを!!」

最後に原爆の犠牲でなくなられた方がたのごめいふくをお祈りし、私たちの平和への決意といたします。

3年4組 一同

7 出発前の学年集会と高揚した意識

広島旅行のための学年集会は、2年次よりて適宜くりかえしひらいてきました。当初より修学旅行は遊びに行くのではなく、「真剣に学ぶこと」が目的であることを強くうち出し、その心構えを準備し、己自身の行動規範を高めてゆくことを段階的に発展させてきました。1つひとつの活動に意味を見つけ役割を与え評価する中で、「広島を学ぶ者にふさわしい西中生のあり方」を意識変革をうながす方向で追求したわけです。そのようなことから諸活動でも、子どもたちの自主的活動は、教師の強力な意識づけ指導の後に続くという展開になっていました。いつも指導が先取りをしていたので、学年集会においても、連続した指導の発展として子どもたちの意識の練磨と向上をめざすことを中心にすえてできました。

しかし、ほとんどの課題を為しとげ、広島に出発する間際の学年集会はまったく今までのものとは違っていました。出発前に「広島への学年集会」は二度もたれました。修学旅行の説明も兼ね父母も参加していました。この集会の中で、平和を願うクラスごとの「平和アピール」をとうとうと読みあげる生徒たち。私語も表情の揺らぎもなく、集会は終始はりつめた緊張が漂っていました。父母をはじめ、見守る学年教師、そこに立ち会ったすべての者に、子どもたちの内に秘めた真剣さがひしひしと伝わってきたのです。学年教師のだれもが感動していました。教師が何かをつけくわえなくてもよい優れた表情が、子どもの手によってつくられていたのです。「子どもが教師を乗り越えていった」その姿に、私たち教師は、集会後の学年会で、各々の感動と広島のとりくみが本当に重要であったことを確認しあったのです。しかし何よりもこの意義を確認したのは、思いをこめた合唱をし、他のクラスの平和アピールにひたむきに聴きいっていた生徒たちと言えます。9ヶ月に及ぶ活動の成果がまとめられてきたわけです。

8 日程および現地活動(概略)

  • 6月9日(月)

  • 与野(午前5時集合)―東京(7時出発)―広島―宮島着(1時半)

  • 〔午後〕宮島を中心とした見学

  • 〔夜〕平和学習

  • 講演「広島を訪れた意味」

  • 6月10日(火)

  • 〔午前〕9時〜11時

  • 記念館および資料館にて調査活動および見学

  • 〔午後〕クラス別活動そして班活動

  • <例>2組

  • 韓国人原爆犠牲者慰霊碑

  • 1開会宣言

  • 2西中紹介

  • 3橋本先生の紹介(担任より)

  • 4碑にまつわるお話

  • 5質疑応答

  • 6お礼のことば

  • 2組の平和アピール

  • うた

  • 7献花・つる奉納

  • 8祈り・黙とう

  • 9閉会

  • 班別碑めぐり・原爆ドーム見学

  • 〔夜〕報告・討論集会

  • 6月11日(水)

  • 宮島散策―帰途へ

9 現地の方からのお礼の手紙

3年4組のみなさん、お手紙ありがとう。みなさんからいただいた市木、カヤの木は、何とか持って帰って庭の片すみに植えました。この木が成長していくにつれて、みなさんの真剣な気もち―ヒロシマを学ぼうとするみなさんの積極性―を思いだすことでしょう。あらためてお礼をいいます。

私はこれまで何十回も、修学旅行生などの平和学習会に参加して、ヒロシマの心を伝えるために話しをしてきました。その中でも、みなさんのとりくみは他のどの学校よりもすばらしいとりくみだと思いました。

第1回目の、写真入りの手紙で、2年生の時からヒロシマ旅行のとりくみをしてきたこと、そのために原爆などについていろんな学習をしてきたことなどを知りました。もちろん、半年もそれ以上も前からヒロシマ旅行のとりくみをしている学校はいくつかありますが、3年4組のみなさんのように1人1人から事前の手紙をもらったり、帰校してからもまた全員からお礼の手紙をいただいたのは初めてです。

6月10日の碑の前での慰霊式で、みなさんは「平和アピール」を朗読いました。これはおそらく、みんなが知恵を出しあい、意見を述べあいながら作ったものだと、朗読を聞きながら思いました。そして、その内容が、とうりいっぺんのものではなく、真底みんなが思っていること、考えていること、決心したことなどを表現しているのだということも、朗読を聞きながら感じました。その意味で、すばらしい平和アピールだと思います。わざわざ和紙に毛筆書きにして送ってくれたことあらためてお礼をいいます。・・・(略)・・・

3年4組のみなさんが、与野西中のみんなが、これからも本当に人間らしく、人間のために生きる努力をされるよう心から願っています。また会えることがあるかも知れません。会えなくとも文章で話しあうことはできます。機会があれば、またみなさんが勉強したこと、考えたことなどを知らせてください。

ではまた、みなさんお元気で、

植野 浩

Y中3年4組のみなさんへ

(※植野氏は、平和教育研究所に勤務されている方です)

10 旅行後のとりくみ

11月におこなわれた文化祭の弁論大会の部のテーマは、1年「西中で学んだこと」、2年「父母からきいた戦争体験」、3年「平和について考える」が与えられました。修学旅行の体験から真剣に学んだことを、内容深く全校生徒に訴えた3年代表が、圧倒的な票を得て最優秀賞に輝きました。同時に上映した「はだしのゲン」の映画で、修学旅行後のとりくみを一層発展させました。(文化祭では、また、様々なとりくみを通じて指導学年の役割を果たしてきたこの学年の力を軸に、早稲田大学オーケストラを迎え、全校生徒で「ハレルヤ」の大合唱を展開したとりくみも報告しておきます)

その後、進路指導が一段落した頃より開始された卒業式実行委員会の討議で、広島で学んだことが再度話し合われ総括されていきました。今度は、生徒自らの手で、卒業旅行で学んだことの総括と平和の願いが「卒業のことば」の中に、西中の3年間のまとめの一部として力強く宣言されてゆきました。また、卒業記念行事では、「はだしのゲン」の映画(2部)を上映しました。そして、講演会に、その著者中沢啓二氏を招き「私とゲンの生き方」と題してお話していただきました。ゲンの生きざまそのものが中沢氏の体験である事実、原爆への怒りと告発、原爆でつくられた地獄絵の報告は、すさまじい迫力をもって子どもたちに響き渡ってゆきました。卒業を目の前にした子どもたちは、重い認識を得て、再度真剣に生きることの大切さを知らされたのです。

同時に、我々教師も、広島のもつ意味の大きさと、あらゆる生きざまの原点と出発点を中沢氏に教えられたのでした。

(1980年3月)

今年度、2回目の広島修学旅行が実施されました。また、現2年生も、広島にむけての学習を開始しています。Y中の平和学習は、今後、実践を重ね確かなものにすすむと思われます。