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全教師による体罰根絶宣言

1989年に母と子社から出版された『子どもの人権  —立ち上がる父母・市民—』※休刊
にて小島 勇先生が執筆された部分を掲載いたします。

当時問題になっていた教師による生徒への暴力(体罰)を根絶するために学校全体で取り組んだ実践が語られています。

※ご注意
当原稿は当時の状態をできるだけ維持したまま、Webでの表示用に一部修正を加えたものとなっております。



全教師による「体罰根絶宣言」

埼玉県Y中学校の実践

体罰根絶宣言

1989年(昭和63年度)、2月6日、次のような「体罰・暴力根絶宣言」を全職員で採択しました。

「体罰・暴力根絶宣言」

私たちY中学校では、「平和を愛し、民主主義をおしすすめる人間となろう」の教育目標に示される、憲法と教育基本法を尊重した真に民主的な学校づくりを進めてきました。その一環として、私たちY中学校教職員は、1985年度から体罰・暴力を一掃する取り組みをしてきました。

学校教育法第11条には体罰禁止が明記されています。しかし、それにもかかわらず、体罰・暴力が生活規律を正し、非行を防止し、学習や部活動の成績をあげるために”効果がある”と考えられ、教育の場から一掃できないできたのです。

体罰・暴力は、子どもの自尊心を傷つけ、子どもに精神的にも肉体的にも苦痛を与えるだけです。そして教育にとって最も大切な教師と子どもの人間的な信頼関係を崩すものでしかありません。このような体罰・暴力は教育基本法にある「人格の完成」をめざす教育とは全く無縁のものです。

私たちは、研修を重ねる中で「体罰・暴力は教育でなく、教育を放棄し、破壊するものである」との認識を深めました。従って教師による子供たちへの”暴力”や、子どもたちに辱めを与える非人間的な”体罰”をY中学校から追放し、根絶していきます。

そして、子どもたちの健やかな成長を保障するため、さらに全職員の一致した指導で体罰・暴力のない豊かな教育を創りあげていくことを決意し、ここに宣言します。

1989年2月6日

Y中学校教職員一同

(付記)この宣言は年度当初の申し送り事項とする。

この宣言と取り組み経過は、3月6日付の地元、埼玉新聞に二面に渡って掲載されました。

四年越しの実践ですが、体罰克服の実践は、まだ緒についたばかりです。

Y中学校の実践の取り組み経過を説明しながら、現場での実践の可能性と、今後の課題を考えてみることにします。

克服宣言を生み出す実践と研修

Y中学校で、体罰の研究会が初めてもたれたのは、1986年(昭和61年)三月の校内研究会でです。

しかし、これより数年前から、Y中学校では体罰指導に対する教師間の自戒と話し合いは、通常、具体的になっていました。職場全体も前々から「子どもたちを大切に扱っていこう」という考えが強いものでした。このような考えは、「子どもを学校の主人公にしよう」とする長いY中教育実践の伝統と、「どの子も丁寧にみていこう」という生徒指導観から出てきているものでした。80年代の突出した子どもたちの非行問題行動の時でさえ、子どもたちの問題に悩みながらも、丁寧な指導を維持しようという実践が、さまざま模索されつづけられてきました。これら対応の特徴も、既に70年代より、入学式から卒業式まで、また、その他にも全ての行事を通じて、子どもたちを主体的に活動させ、自主性を育もうという教育実践が息長く続けられてきたことによるものです。

体罰克服宣言の土壌は、豊かな教育実践・生徒指導の追求と、次に説明する「広島修学旅行・平和教育」の実践で培われていたのです。

80年6月、埼玉の公立中では初めて広島修学旅行を実施し、平和教育を通じて「生きることの大切さと意味」を問いかけ、学び、豊かに生きることを考える学習を展開しました。その後も、Y中教育目標の「平和を愛し、民主主義を押し進める人間となろう」を具体化するため、”平和と人権”の大切さを、丁寧で、厚い準備をもって、毎年、継続発展させてきました。80年を契機にした全国的な子どもの変化に対して、「平和教育」の中に、子どもと教師が共に豊かに生きてゆく方向を”学び”と”取り組み”をとおして確率しようと試みたのです。

そのような長年の平和教育の積み重ねの中から「平和教育」とは、「子どもの人権」を尊び、生命を守り育ててゆくことであることも具体的に確認してきたと言えます。

そして、体罰否定の考えも、このような多くの実践と理念の追及に裏付けられて確立してきたと言えます。

最初の「体罰研究会」がもたれた1985年(昭和61年)当時、すでに、体罰による指導はかなり日常的に戒められあう職場になっていました。若い教師の教室での隠れた体罰を聞きつけ、職場分会で話し合い、年配教師が代表で「体罰根絶」の意見を、朝の打ち合わせの時に提案することもありました。80年の3月3日、「体罰の研究」が初めて、生徒指導委員会の教師たちの取り組みで実施されました。校内での研修会は、それまで幾度も開いていましたが、この研究会は当時の教育状況の中では画期的なものだったと評価できるものです。

当時は全国的な規模で、学校の管理傾向、教師の体罰の問題が指摘され、子どもたちの中にも「いじめ」「自殺」が相次いで報告されてきていました。このような時期の中で、教師が自主的に研究会を開き、体罰研究を自分たちの課題として取り組んだのです。当時、生徒指導委員会で中心として活躍していたA氏の提案レポートは七枚、また、校長自らがレジメをつくり法規上の扱い、体罰禁止事例を全職員に学習提起したのです。

かつて、体罰による指導を自ら行い、反省と自戒の具体策を模索していた私は、この研究会の実践上の大切な意味を考え、協議会の中で「体罰克服の宣言書を可決し、全職員の意思として具体化した方が良い」と提言しました。私が宣言の提案を強く主張した理由には、『体罰・対教師暴力―体験的非暴力教師宣言』(池上正道著・民衆社)の本からのメッセージを読みとり、その具体的実践を考えていたからでした。

池上氏は同じ技術科の教師で、豊かな子ども観と実践を真摯に追求してゆく先輩教師であり、私が新任の時から教師モデルにした方でした。子どもを決して叩くことのない研究熱心な教師でさえ、荒れた状況の中で「対教師暴力」を受ける。その詳細と「教育における非暴力の大切さ」を、この著はうったえていたのです。

「いま『非暴力』で押し通せる教師こそ、学校にとってかけがえのないたいせつな教師であることを自覚する必要がある。」(同書159頁)

「教師集団の中で、とにかく、体罰否定の風潮が生まれることが大切なので、それは大事に大事に育ててゆかねばならない。」(同書131頁)

「学校が『強者』になるという意味は、学校に正義と民主主義が保障される『権能』を学校がもつことであり、そのことと『すべての暴力を学校からなくすこと』とは両立するという論理構成を立ててみたのである。『学校は強者になり』なおかつ『教師は非暴力主義をつらぬく』道をこそ求めなければならないのである」(同書86頁)

しかし、この年は、大規模校化のため、新設H中学校との分離もあり、多忙となり「体罰克服研究」はそれ以上の進展をみることはありませんでした。「宣言」も「研究」も、先送りとなってゆきます。

体罰克服研究の再開

1987年(昭和61年度)は、一年間、体罰研修は一度も開かれないままでした。多くの実践と指導を共にしてきた教師の異動という年で、学校分掌、各仕事の立て直しが必要で、「体罰克服の研究」は継続課題として、翌年度に送られただけとなりました。

1988年(昭和62年度)、前年の「体罰克服研究」の不振で、体罰研究実践が立ち消えになる心配をいだいた私は、自分が所属していた校内研究部の活動項目に「体罰克服研究の具体化」を位置づけ、4月、全体に提案しました。

最初に取り組んだのは、研修会の再開です。8月21日、学校や教師は今、社会的にはどう映っているのか、客観点な位置を自分たち自身が獲得するため、朝日新聞記者の豊田充氏を招き「新聞記者から見た学校、教師」という講演を企画し、率直な意見を提出してもらいました。

また、同日の午後と翌日に開かれた「子どもの人権と体罰シンポジウム」(東大)に参加し、体罰の現状を学びました。その中で、多くの学校体罰の深刻さ、事例のヒドさに大変なショックを受け、現場の中から何としても体罰克服を具体化させ、展望ある実践モデルを提起していかなければならないと固く決意をしました。

多忙な行事が終わった二学期後半より、研究実践のプランを立て、生徒指導委員会と共催で「体罰研究」の再開、研修を進めてきました。体罰克服の実践が、現場の学校から具体化されないできたのは、教師個々人が他の教師の指導の内実に触れない(触れられない)という関係にあり、お互いを実践的に、理論的に解放できる展望を提起できないことに原因があるのです。子どもへの体罰指導の批判、キャンペーンが、日弁連や法務省の人権擁護局から出されてもなおかつ、現場が具体的に呼応せず、相変わらず体罰指導が放擲されたままになっているのは、現場で教師が互いの指導の内実に触れることを避けあう心理、情況の重さがあるからです。この重い情況、心理関係を軽減し、「体罰克服宣言」に新しい実践の地平をつくり出すためには、「体罰研究の第一線の研究者」の力を借り、実践の方向に自信と勇気を与えてゆくことが必要で、その研修会を終え、準備を始めました。

2月25日、校内研究会に、今橋盛勝氏(茨城大)を迎え、「体罰克服の教育の今日的意義」という題で講演を実施し、その提起を受け、全職員がゼミ形式で「体罰克服に伴う諸課題」をグループ別で討議、全体研究会を持つという計画でした。

それより先、15日に、事前研究会を実施。とだえていた「体罰研究」の意識づくりを図りました。校長より「体罰禁止と法、教師の心得」をプリント説明してもらい、続いて、「体罰発生のメカニズム」を小島が提起しました。

25日の全体会に向け、五度の研究部と生徒指導委員会の合同会議をもち、きめこまかい準備を職員会に提起してきました。また、合同会議の中では、しばしば「体罰克服は、本当に出来るのか」「先輩教師や同僚の体罰指導を制止できるか」「子どもの荒れを逆に誘うのではないか」という若い教師の疑問と本音をめぐり、論議も繰り返してきました。体罰の指導をしてきてしまった教師、それを現場で見聞きしてきた教師にとっては、「体罰克服の研究」を具体化するたびに、本心から出る疑問に引きもどされ、とまどう本音が変わらず出てくるのです。

このような教師固有の思い、自分だけの考えから、本音を出させ、そこに横たわる課題、歩む方向を共通のものにして議論していこうという全体研究会は、なんとしても必要なものでした。

研究会プログラム

2月25日(木)の研究会のプログラムは、次のような内容で進めていきました。

  • 一、開会
  • 二、校長あいさつ
  • 三、講師紹介
  • 四、講演「体罰克服の教育の今日的意義」
  • ・今橋盛勝氏(茨城大教授)

  • 五、提起を受け、グループ研究
  • ・課題解決の道筋

    ・今後にむけての取り組み

  • 六、グループ提案と検討、講師コメント
  • 七、お礼
  • 八、閉会

「四、講演」と「五、グループ研究」で、研究者の提起と、現場の教師の本音、諸課題をドッキングさせ、実践上の展望を切り開くようにしたわけです。

今橋氏の準備も丁寧で、Y中学校の現段階の体罰研究上の評価、意味づけもあり、講演からは大きな示唆を受けました。

講演の概要の中から、「教育現場への提言」(現場の課題)の部分のみ、記述しておきます。

〈教育現場への提言〉

  • a 現場教育の中に「人権と法」を具体化させること。
  • ・体罰がなぜ、禁止されているのか討議の場を持つこと。

  • b 「懲戒」と「体罰」の違いを整理すること。
  • ・多くの事例では「熱心さの余り」という危弁がまかり通っている。

    懲戒目的が無ければ「暴力」でしかない。

    体罰が禁止されていることの確認も必要である。

  • c 生徒間に、「人権」意識を育て、共有させてゆくこと。
  • d 体罰の発生が、どのようなメカニズムになっているのか解明すること。
  • ・素晴らしい実践には、それ相応の教育観、人権意識が根底にある。

    それが無いから体罰が出てくる。

  • e 暴力を受けたダメージは、何年も続く事実であることを確認すること。
  • ア 体罰は「暴力を学習させている」のである。

    教育とは、「暴力を否定すること」を学習させなければならない。

    イ 子どもは「適正な懲戒・罰」を受け、育てられる権利がある。

  • f 「体罰」をすぐ判定できる合意と環境をつくる。
  • ・長期化は避け、早く解決してゆくシステムを作り出す必要がある。

多くの重要な実践視点が与えられた講演でした。この後の教師によるグループ討議の概要も、簡単にまとめておきます。

① 討議の中で課題とされたもの。

  • ・体罰に対し、教師同志で戒め合えるか。
  • ・子どもへの指導が入らない時、指導の先頭に立つ教師に反論しづらい。
  • ・叩くことで指導が入っているという意識と必要悪の考えを持った教師を変えるのは難しい。
  • ・体罰に対する生徒の考え方を聞く方法はどういうものか。

② 今後の課題として確認されたもの。

  • ・子どもの成長過程を認め、内面的成長をとげている子ども観を教師が持つこと。
  • ・おこらず、殴らなくとも、さまざまな指導方法を追及してゆくこと。
  • ・体罰発生の時、周囲の教師が共に話し合い解決してゆくことの共通理解を持つこと。
  • ・日常、良いコミュニケーションを、子どもとの間につくり出すこと。

この研究会で、全職員が「体罰克服の方向」を前向きにとらえ、そこに横たわる課題を共通のものと認識できた意味は、大きいものがあります。また、「子どもの人権」の確認、「体罰は暴力を学習させている」事実の認識を、研究会を通じて確立したことも重要な点です。

3月の職員会で、この年度の「体罰克服の研究」の成果と課題を明確にし、次年度への課題としました。

全職員の共通認識と合意の中で

1989年(昭和63年度)、新転入の教師が増した中でも、再度、二学期後半より、研究部と生徒指導の合同で、「体罰研究」そして「体罰克服宣言」の準備、検討を継続し、再開してきました。

幾度の準備委員会の折でも、新しく異動してきた教師の中には、「なぜ宣言を出さなければならないのか」「子どもの実態で止むを得ない必要悪なのではないか」と、今までの研究の積み重ねと経過に疑問を出す教師もいました。校長も交え、多くの議論を重ね、可能な限り、宣言の大切な意義、教職員の実践意思の方向を丁寧に確認する方法をとりました。準備会での合意をもとに、全体の提案を重ねてゆきました。

1月18日、「体罰克服の研究―経過と今後の日程」を説明し、再度、共通の課題、取り組み方向を確認しました。「宣言」採択のため、何度も準備会議も開き、その都度の共通課題を明確にし、また、教職員の合意と認識を共有するため、研修会の持ち方、提案の方法まで、慎重に準備してきました。事前の準備会でのメンバーの論議も、毎回、核心を突いた内容となり、一人の教師の素朴な疑問にも答え、またそこから認識をスタートさせるというフィードバックも繰り返してきました。

いよいよ、1月31日、「体罰・暴力根絶宣言(原案)」提起です。原文を提案し、教師全員がグループごとに分かれ、原文の修正、検討を時間をかけて実施しました。文章を検討することを通じ、全職員が宣言内容に係わり、再度、「宣言」の精神、実践上の課題を認識してゆくことをねらっての研究方法です。

多くの意見、修正検討を経て、2月6日、前段の「体罰・暴力根絶宣言」は、全職員の拍手で承認されたのです。多忙な時期でしたが、体罰研究を始めて、ここに至るまでの四年の期間、実践の積み重ねが必要だったのです。

宣言の意味、そして今後の課題

現場からの「体罰克服実践、研究」は、まだまだ、立ち遅れています。それは、体罰の指導が、現在の生徒指導上「効果があり、必要悪」という暗黙の認識があることと、教師集団の、お互いの指導の内実には触れないという閉じられた意識、互いの不可侵で日常を送っているからです。このような中で、体罰克服の研究を進めるというためには、現場の持つさまざまな課題、教師の核心に触れた問題を丁寧に扱い、一つ一つ解きほぐしてゆく周到な準備と提案、また、実践に向けた大胆で、強力な意志が必要となります。

体罰克服宣言を、ようやく採択した今、「宣言」その中に、多くの大切な意義を認めることができます。大切な観点を、項目でまとめておきましょう。

①「宣言」とは、「子どもの人権」を教師の指導の中に、確立させるものである。

②「宣言」は、教師の体罰を含んだ生徒指導のあり方を、温かく丁寧な指導に変換させる指針であること。

③「宣言」は、教師の中で「体罰は暴力の学習である」ことを認識し、力と服従の指導から、「非暴力の大切さ」を明示し、信頼による教育をつくり出す指針となるものである。

④「宣言」は、教職員同志の指導の検討、向上を育んでくれるものであり、教職員の研修を保障するものである。

⑤「宣言」は、子ども、父母、教職員自身に対する、「非暴力」の意志の明示であること。

多くの課題につつまれた現場の中で、自らの立場、関係を明らかにし、深刻な課題を一つづつ解決し、全職員による研修を組織し、進めてくるという経過に、この実践の持つ、もう一つの重要な視点もあるのです。

しかし、この実践も、まだ緒についたばかりで、今後、父母や子どもの率直な意見や声を聞き、生徒集団やPTAがどのように体罰克服に具体的に係わってゆくのか、という研究課題も残っています。また、教師の個々の生徒指導の力量を向上させるため、多くの事例研究、温かく丁寧な指導の開発、研究という実践課題もあります。

しかしながら、「宣言」が切り開いた実践の意義は、一つの学校実践にとどまらず、現在の多くの学校、教育課題に光を与えるものであることに違いはありません。

「宣言」は、教師や学校の現状、硬直した関係、構造を把握させ、新たな教育の可能性を展望させ、今度においてどのような指導、子どもとの関係をつくり出す必要があるのか、その方法を具体的に指し示す役割となっています。

「体罰克服宣言」が持つ積極的な意義は、現在の教育課題に現場の教師が責任を持つことであると同時に、将来、今後の教育への新しい意義づけ、提案の内容も含んでいるのです。

(埼玉県立Y中学校教諭)