10月 132012
 

※当記事は日中翻訳館様より転載の許可を戴き掲載しております。

この場を借りて日中翻訳館及び代表の中山春樹氏にお礼を申し上げます。
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日中翻訳館 代表者紹介

中山春樹(李春)  1963年生まれ。1980年北京師範大学教育学部入学、1987年同大学修士課程卒業後、ハルピン師範大学教育学部専任講師を務め、1992年私費日本留学、2000年東京大学大学院教育研究科博士課程満期終了。2001年帰化。朝日中国文化学院、東京経済大学、和光大学、日本獣医畜産大学、目白大学の非常勤講師を経て、2003年学校法人創志学園専門学校東京国際ビジネスカレッジ日中通訳翻訳学科専任講師として教鞭を執る。コース長、学科長を歴任。2011年4月独立、日中翻訳館株式会社を設立。

 

 

  先日、東京電機大学理工学部小島勇先生の教職授業を見学した。小島先生が開発提案してきた<分かちあい>授業研究の授業は素晴らしかった。素晴らしい教育を行っている日 本の教師は、このように育成されているのだと非常に感心した。

「<分かちあい>は、各自の<気づき(感想・意見含む)>を尊重した相互傾聴学習である。学 習者の声は、そのままグループ内で受けとめられ、発言者に対する意見や反論もなく<(自由な)語り>によって語る者はより自らの<気づき>や課題を反省的に深めていく。また聞 く側は傾聴を通じて相互の見方や違いを認め、他者の<気づき>から学んでいく。<分かちあい>学習はどのような気づきも、疑問も自由に語られ、また語らずともよく(「発言の パス」も可)、学習者はそのままの姿で尊重される方法である。課題に対しては、解決のた めの具体的な提案(改善策)を基盤とした「話しあい」「ロールプレイ検証」を設定していく。」
(小島論文より)。

<分かちあい>授業を受けた学生は、間違いなく、素早く教育の現場になれることができ、 一人前の教師になる道のりはきっとそんなに遠くないだろう。 そして、学生が行った模擬授業に対して、小島先生や同じ授業に参加したほかの学生はそ の授業の特色を高く評価する点は、非常に印象に残った。やはり、これは日本教育の特徴 の一つだと実感した。

日本の高度発達した経済は、日本の優れた教育の産物であり、その優れた教育は、現場 の教師と教育理論研究者が協力して創出してきたものだと、中国の大学の先生は教えてく れた。それを固く信じていた私は、日本の優れた授業とは何だろうかという素朴な疑問を 持ちながら、いつか日本の教師に尋ねたいと思っていた。その機会がやってきたのは、東 大教育学研究科の院生として小中学校の授業研究会に参加したときであった。「どんな授業 がいい授業だと思いますか?」と聞いたら、「えっ、いい授業って、基準があるんですか?」 と逆に聞かれてしまった。あれ!日本の教師が、いい授業の基準を知らないのかと思った。 現場の教師の回答に驚かされた私は、その問題を校長に聞いた。「基準が無いんじゃないか なー、先生たちの授業はね、それぞれの特色があるから、特定の基準で判定することが出 来ないと思いますよ。だからね、良い授業の基準がないと思います。」長い間中国の教育を 研究し、日本の教育にずっと憧れた私は、どうしても校長のこの話を納得できなかった。 中国の授業はいつも特定の基準で判定されるからである。

第一に、授業目標は授業の出発点と授業の良さを判定する主要な尺度だと考えている。 授業はこの目標をめぐって展開しなければならない。授業の目標は、必ず正確で明確であ ると同時に、学習指導要領の方針とその学科の全体的な目標に一致する。そして、その具体な授業の実際の状況も考慮しなければならない。目的は大きくも小さくもなく、公式的 なものでもない、確実に実行することが出来るものである。

第二に、授業の内容は授業の良さを判定する鍵と考えている。良い内容とは、科学性と 思想性が強く、学習指導要領、教科書とその授業の目標に符合し、系統性で、一貫性があ り、重点がきわ立ち、豊富で、充実かつ分量が適当である。

第三に、教師が授業中に使った方法は、授業の類型、構造、目的とうまく組みあわせ、 教材の特徴と生徒の実際にも合う。そして、授業の時間は適切に割り当てられ、合理的に 運用されるのである。

第四に、教師も生徒も高度な能動性を発揮する。授業は教師の独白でもなく、生徒の独 学でもない。教師は生徒の学習を共感し、生徒は教師の意図をも理解する。教師と生徒は 協力して学習の共同体を作り出すのである。

第五に、確実な効果を獲得する。全ての生徒は授業を通じて現有のレベルより少しでも 向上する。生徒は授業内容に対して、「もの足りない」、「消化しきれない」、「消化不良」な どの現象が起きないようにする。最後に、一つの授業を既に行った授業とこれから行う授 業との関連の中で考察し、孤立して判定することではない。すなわち、その授業をその学 科の全体における位置から総合的に考察するのである。

中国のこの基準は、教師をある目標に向かわせ絶えず自分の授業を反省し検討し調節し 改善させるためである。しかし、この基準はまた目に見えない縄のように教師の独創性を 束縛しており、画一な授業を産出している。それに対して、特定の基準がない日本の教師 は、前進の目標を失う危険性が存在しているが、教師たちは現有の授業の枠組みから脱出 し、自由に多彩な授業を創造することができるのである。教師の授業に対して、一体判定 の基準があった方がいいか、それともなかった方がいいか?多くの教育者も私と同様、こ の問題に悩みつつ、そして考えているのではないだろうか。

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